隠居たるもの、久方ぶりにハンドル握る。はてさて自動車を運転するのもどれくらいぶりになろうか。2022年8月25日午後のこと、安曇野アートラインをレンタカーで走りながらそんなことを考えていた。つれあいが安曇野にある雑貨屋acorn(英語で「どんぐり」のこと、エイコーンと発音するそうだ)という雑貨屋に行ってみたいというから、4か月ぶりに白馬カーサービスのおやっさんに電話をしたのだ。「マーチは出てるけど、スイフトなら空いてる」、それを半日借りることにした。車を取りに行くと「この夏は白馬にもお客さんが戻ってきて借りてもくれたんだけどね、たてつづけに車をぶつけられちゃってさ、しかも何も言わずにしらばっくれてそのまま返そうとするんだよ?本当に参ったよ」とおやっさんにしきりにぼやかれた。
「木工ヤマニのスパイスミルを展示販売してるのよ」
この夏のほとんどを白馬で過ごしてきたとはいえ、せいぜい自転車で間に合う近場ばかりをうろうろしていたから、レンタカーを借りる機会が一度もなかった。しかしこの日は遠出をしようと考えていた。とはいえ計画していたのは「ぶらり日帰り鈍行列車の旅」 。JR大糸線に乗って、いつもの反対側、日本海に面した新潟県は糸魚川に足を運ぶつもりだった。なのにお盆を過ぎたあたりからこのかた、どうにも天気がスッキリしない。曇りがちで一日のうちどこかで必ず雨が降る。稲穂たれる見渡すかぎりの田園風景、そいつはどんより曇天の下ではなく、せっかくなら晴れ晴れとした車窓から眺めたい、それが人情というものだろう。
ということで「ぶらり日帰り鈍行列車の旅」はあえなく延期とあいなったわけだが、するとなると「だったら私には行ってみたいところがある」とつれあいがのたまう。「安曇野の雑貨屋で今、木工ヤマニのスパイスミルを展示販売してるのよ」。車に乗れば、その雑貨屋まで1時間ほどである。そしてその方面に車で向かうというならば、途中で大町のソウルフード 俵屋飯店に立ち寄ることも可能である。「木工ヤマニ」というのもなにやらありがたそうでもあるし、私もひとつこの話に便乗することにした。かかる経緯を経て、唐突に「安曇野に向かって半日ドライブ」は浮上し、そして決行されたのである。
俵屋飯店の餃子は3口でないと食べられない
手打ち蕎麦屋ばかりが並ぶ安曇野アートラインを走りながら、私たちはついさっき後にした俵屋飯店への賛辞を惜しまない。私が注文したのはラーメン+炒飯+餃子+つけ合わせ野菜+漬物のAランチ770円(税込)、つれあいはうま煮+餃子+つけ合わせ野菜+漬物+ライス+スープのBランチ660円(税込)。「あれこそが『町中華』だ。余計なことをしないでいて当たり前にとにかく美味い」「あたしはうま煮に効いてる出汁が好きなんだよね」「元が肉屋さんだけあって餃子の餡にみっちり肉が詰まってて、あの大きさなら普通は2口で食べるところを3口を要しないと食べられない」「もう夏も終わっちゃうかあ…。あの餃子でビールを飲みたい」2人合わせて1,430円でここまで幸せな心持ちになれるのだから安上がりな夫婦である。穂高駅に近づくころ、カーナビが、細い道を右に曲がってもっと奥に入れと新たな指示を出した。
acornは木々に囲まれて建つ
雑貨屋というから可愛らしくちっさな店舗を思い描いていたのだけれども、車から降りていささかびっくりした。木々に囲まれて建つ童話に登場しそうな立派な2階建て、散種荘よりよっぽど大きい。ひっきりなしというわけではないが、お客さんだって常に入れ替わる。小洒落たものが並ぶ店内、お目当ては2階だと案内される。上がってみるとズラリと並んだスパイスミル、形や材、同じものがひとつとしてない。木工ヤマニは大町市は俵屋飯店の近くに夫婦が構える家具工房で、一つ一つ丁寧に手をかけられたこのスパイスミルがとりわけ評判なのだそうだ。素晴らしい。私たちは交互にすべてを手に取り回してみる。スパイスを挽くときの音と香りを想像しながら、もっとも手になじみそうなものはどれか確かめる。ふたまわり試したのち、写真の最前列、左端のものを散種荘に迎え入れることにした。
安曇野に来たからには大王わさび農場へ
これまで安曇野は通り過ぎるばっかりだったから「こんなことでもないと行くことなんかないんだし、あそこも見物してみようじゃないの」と思いつき調べてみる。観光パンフレットには必ず掲載される、安曇野を代表する風景、それは湧き水に囲まれた「大王わさび農場」だった。カーナビに打ち込んでみるとacornから6.5km、まさに「立ち寄る」といった距離、足を延ばしてみる。おお、清らかな川にゆっくりと回る水車、これだ。薄曇りの夏の終わり、まるで印象派の色彩である。しかしここはあくまでも農場、「これだけを目指して安曇野まで来てしまった旅人はいささかがっかりするのではなかろうか」、わさびソフトクリームを舐めているとそんな老婆心が頭をもたげてくるのであった。
帰りがけ、車を持たないが故に来れないままでいた、うちからは少し遠い「十郎の湯」でひとっ風呂浴びた。普段につかるトロッとした八方温泉と違い、白馬かたくり温泉はサラッとしていていつまでも入っていられた。汗を流し、買い物も終えて明るいうちに散種荘に帰りつく。「はは、無事に帰ってきました。はい、鍵はいつものようにしておきます」白馬カーサービスのおやっさんに電話して車を取りに来てもらう。さっそくビールを飲む。ああ、もうすぐ隠居の身。ドライブは半日だけでなかなかにいい。