隠居たるもの、身を斬る寒さに襟巻きを締め直す。先週からマスコミが「日本全土に10年に一度の大寒波が襲来」と連呼する。週が明けて火曜日から水曜日そして木曜日にかけてがピークになるという。「事前準備を怠らず、その上で当該日は不要不急の外出を避けろ」と言わんばかり、凄まじい剣幕でさんざんに脅しをかける。とはいえ仁義を欠いちゃあこの浮世で生きてはいけないわけで、かくいう私にもずいぶん前に交わされた約束があって、だとしたら流行りの感染症に罹患していないかぎり(もちろん先方の状況も含めて)、少し厚着をしてやはり出かけていくのである。それは折しも2023年1月24日、「さあこれから大寒波が襲来するぞ」という火曜日の午後のことだった。
ローラが睨みをきかす六本木交差点
午後5時過ぎ、私は外苑東通りを、その始点である飯倉交差点から東京タワーを背に六本木交差点に向かって歩いていた。大寒波が確かに襲来している。北からピューっと吹いてくる向かい風が恐ろしく冷たい。マフラーをギュッと締め直し、バックから手袋を取り出し装着する。先にある高層ビルの建設現場から吐き出される労働者たちが私とすれ違って駅に急ぐ。おそらく東京メトロ日比谷線神谷町駅に向かっているのだろう。ついさっきまで私はその神谷町にいた。頼まれていた用事を済ませるために大学の先輩を訪ね、そのついでに私たちの間でこのところ話題にのぼった中野重治の詩のことなぞを話しこんでいた。家を出たころ、大寒波は手ぐすねをひいていてまだ南下しきっていなかったのか、気温は低かったかもしらないが風も吹いておらず、まだまだ呑気に構えていられた。それがどうだ、陽が落ちるやいなや、さんざん脅された通りにあたり一面が冷気に支配される。オフィスを後にする人たちも険しい顔して早々に家路に着く。ビットコインの広告塔となってローラが睨みをきかす六本木交差点あたりをウロウロしているのは、春節(旧正月)休みで観光にいらしているアジアからのお客さんばかりだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」
そう、日中はまだそれほど寒くもなかったのだ。友だちが経営する近所のギャラリーから「この度ギャラリーダルストンでは、オーストリア人アーティストのカティ・ホーファーさんがオーストリアアルプスの小さな町で長期にわたりホーファージャケットを歴史的・芸術的に展開してきた内容をご紹介致します。」と案内をもらっていた。会期は1月24日から2月5日だという。つれあいの生業からしても私たちが顔を出さないわけにはいかないのだが、日程として立ち寄れそうなのは、この日24日のオープン直後しか見当たらない。するとなると「10年に一度の大寒波」に拘泥している場合でもなかろう。昼食を済ませた昼下がり、神谷町に出かける前に「そんなに寒くもないねえ」などと夫婦で足を運んだのだ。
曲がりなりにも40年間お洋服に関わってきたつれあいである、展示を観ながら「新自由主義がもたらした、避けて通れないこれからのウール製品の悲観的展望」を解説してくれた。かいつまんでいえば「良質なウールを生産するための産業構造そのものが、悲しいかな世界的にすでに修復不能なほどに壊されている」ということなのだが、その詳細な内容についてはまたの機会に譲るとして、大寒波が襲来するというその日、それもあってか手仕事の丈夫そうなホーファージャケットの素晴らしさが際立った。またしても良貨は悪貨に駆逐されつつあるのだ。お手許にあるお気に入りのセーターは、今後も大切に着用されたほうがいい。
10年に一度の大寒波の夜の上海蟹とフカヒレ
昨年の秋、私は立て続けにバカボンのパパが通った大学の隣にある母校に足を運んだ。後輩となる現役大学院生を支援したいと、私心もなければ下心もない、とてつもないオファーを母校に示した大先輩がいらして、それを形にすべくにぎやかしの一員として大学スタッフとの折衝に加わるのが私の役目だった。その先輩が「世話になったから、あなたたちと新年会がしたい」と指定してくださったのが西麻布の名店 中国飯店、足を踏み入れたことすらない。好き嫌いはないかとだけ聞かれ(もちろん、ない)、料理が次々に運ばれてくる。上海蟹やらフカヒレの壺煮込み、老酒だって30年熟成だ。先輩とにぎやかしの面々たる後輩がそれぞれの来歴について、ときに面白おかしく語り合う。大先輩は興味深そうに後輩たちの話に耳を傾けておられた。果たしてお会計がいかほどになったのか私には見当もつかないが、先輩は「仮にも私が年長者だからね、恥ずかしながらここは私に任せてくれ」と、午後9時半あたりに店から私たちを送り出した。世の中にはどうにもすごい人がいらっしゃる。まごうことなき大寒波が降りてきていて、とてつもなく寒かった。ならば素直に帰ったのかというと、話し足りないにぎやかしの面々は、人の少ない六本木を「寒い!寒い!」と小走りしつつ早々にもう一軒を探しあて、案の定2次会に繰り出した。「効率」なんかクソ食らえ、私たちはつまりそういう心がけなのである。
10年に一度の大寒波の朝に北に向かう
なにもすき好んでこの日を選んだわけではない。東京での用事、大先輩からお招きいただいた新年会、チャイニーズの方々の春節(旧正月)休みのピーク、それらを鑑み白馬に戻るのは1月25日水曜日と当初から計画していたのだ。北に進路をとる新幹線は大雪の影響で運休や大幅な遅れが相次いでいたが、幸いにも私たちが乗る東京駅10時32分発の北陸新幹線は、ごった返す東京駅を11分遅れで出発した。オーストラリアとチャイニーズの方々に埋め尽くされた長野駅発の高速バスも定刻通りに発車、途中に強風で一瞬だけホワイトアウトし徐行となった場面もあったが、大幅な遅延もなく午後2時過ぎに白馬に到着する。雪は大して降っていないものの、確認すると気温は−7℃、大寒波の影響下さすがに寒い。到着した散種荘の温度計を目をやると−0.9℃、室温が氷点下だったことはこれまでにない。当然に水抜きしきれなかったわずかな水が凍った2階のトイレは流れなくなっていた。ふふ、経験済みなのでもはや動じることはない、まあ一昼夜かけてじっくり溶かすとするさ。
大寒波の残り香でようやくにして雪が降る
派手に赤いウェアを着たオージーのおじさんが、私に向かって日本語で「キョウハイイデショ?パウダー?」と右手の親指をグッと上げる。1月26日木曜日、雪がそそと降る中、私は五竜&47スキー場に出向いた。実はこの冬、年末年始にドサッと降ったきり、白馬は雪が少ない。蛇行する偏西風の影響で、日本各地に大雪をもたらした雲は北アルプスを越えてこなかった。スキー場はアイスバーンと化しガリガリで危険きわまりなかった。大寒波がもたらしたいくばくかの雪は、白馬にとってはようやくの恵みである。その大寒波の名残だろうか、昼からはザンザンと降り始めている。2階のトイレの水が果たして流れるようになった。こうなったら明日のゲレンデが楽しみだ。ああ、もうすぐ隠居の身。これが私が知る大寒波の一部始終である。