隠居たるもの、軟らかく血管を保ちたい。2024年3月31日、この3日ほど続いた暖かさで、五竜&47スキー場は急激にそしてすっかりと重くなっていた。滑走中にブーツにのっかる雪はそもそも湿っているからすぐに溶け、中まで染み込みわかる程度にうっすらとソックスを濡らす。黄砂にさらされた雪面はどことなく黄色く、ふもとに降りるほど土がところどころに顔を出す。3月に入るなり降った予想外の大雪でなんとかここまで楽しめたものの、さすがに本格的なシーズンは年度替わりに帳尻合わせてここでピタリと終了。それにしても、当初は雪不足を怨んだこの冬、結局のところ私は41日もスキー場に足を運んだ。なにも今さら選手になろうとか大会に出て賞状をもらおうとか、そんな大それたことを企んでいるわけではない。懲りずに楽しめるもの、それこそを道楽と呼ぶのだろう。
「不適切にもほどがある!」 中高年が昔を懐かしく思い出すのにはワケがあった?
私が日々に購読しているのは毎日新聞デジタル スタンダード版なのだが(12ヶ月一括払いで購読料9,240円、ひと月あたり770円、とにかく安い)、配信されてくる記事の中に連載ものの医療コラムがあり、スマホに送られてきた前回のタイトルが「『不適切にもほどがある!』 中高年が昔を懐かしく思い出すのにはワケがあった?」だった。なにかと話題となったTBSのドラマを持ち出し何を言わんとしているのかと読み進めてみる。時代設定が昭和61年なもんで、当時に22歳だった私もご多聞にもれず熱中して楽しんだが、あのドラマのどこに中高年に対する訴求力があるのか、お医者さんがそこで論じておられるのは、前頭前野と動脈硬化についてだった。
*毎日新聞より。有料記事で閲覧できないかもしれませんが、:
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240322/med/00m/100/008000c
「進取の気性」は左の前頭前野
積極的に新しいことに取り組んでいこうとする機能をつかさどるのは左の前頭前野である(右の前頭前野が担当するのは「善悪の判断」)。しかし年も50を超えて動脈硬化が進んでしまうと、酸素が容易にそこまで行き届かず、興味脳としての働きがだんだんと落ちる。するとワクワクしたり新しいことにチャレンジする活力がなくなり、これまでに慣れ親しんだものばかりに目を向ける。それが悪いとは一概に言えないものの、過去にひたりたがるのは動脈硬化が一因とも考えられる。「人は血管とともに老いる」。さあ、春だ、外に出て運動して、血液中の老廃物を排出してみたらどうだろうか。血管を軟らかく保てば、年を重ねても「進取の精神」は衰えない。若い者に「あの人、昔のことばかり言っている」と陰口を叩かれるのも癪に障ろうというものだ。
要約するとそういうことが書いてあった。とりあえず己はさておいて、「ははあ、なるほどそういうことか」と思い当たる同年代の友人がいないこともない。
DUB論とJAZZ is POP!!
年が明けてからこの3月まで、スノーボードを満喫するため私はおもだって白馬で暮らしていた。その間に散種荘でパラパラ少しずつ読み進めていたのが、上の写真にある「DUB論」と2月15日発売 BRUTUS 1002号の特集「JAZZ is POP!!」である。1960年代後半から80年代にかけて、ジャマイカでレゲエから派生させDUBという特異なジャンルをレコーディング・エンジニアたちが確立した。霞のような音響、遠く深くとばされるエコー、空間を揺さぶる低音、まさしくポストコロニアル(*)なDUBを私は好む。「DUB論」は米国の学者 マイケル・E・ヴィールの学術論文だ。歴史をしつこくたどり、DUBが今日の音楽製作に及ぼした影響をつまびらかにした労作である。それに対しBRUTUS「JAZZ is POP!!」は、才能あふれる若きミュージシャンが今どんなJAZZを鳴らしているかを教えてくれる。そして現代というのは実に便利なもので、これらで興味を抱けば配信で探してすぐに聴くことができる。しかし裏腹に現代というのは実に危険なもので、(つれあいには内緒であるが)いとも簡単にインターネットで15枚もレコードを買ってしまう(あれ、本当はもう少し多い?)…。
*ポストコロニアルとは:https://ja.wikipedia.org/wiki/ポストコロニアル理論
「未知」に焦がれる
配信で聴けるのだからそれで満足しておけばいいものを、それができない。しかし私はコレクターではない。希少な「ブツ」がどうしても欲しいと思うことはないし、とんでもない大金をはたいてオークションで競り落とすような真似もしたことがない。中古を含めて安く手に入れられないかせっせと探し、法外な値段だったら潔く諦める。「鉄ちゃん」と呼ばれる鉄道愛好家の中にも、乗ることを好む「乗り鉄」や写真撮影することに精を出す「撮り鉄」の類別があるように、音楽愛好家にも演奏に情熱を燃やす人もいれば、聴くことに集中して満足を覚える者もある。ただひたすらにリスナーである私は、愛着をもって「ブツ」を手元に置いておきたい。そして寄る年波には逆らえないのだ。今や私たち夫婦の耳には常にうっすらと「耳鳴り」がする。東京では周囲の雑音にまぎれて注意を払うほどでなかったとしても、静かな白馬ではじんわりと際立ち気にかかる。だから「いい音」を漂わせてそれを薄めたい。デジタルの配信よりアナログのレコードの方が今のところ断然に音がいい。
とまあ、道楽者というのはかように各種の言い訳を取りそろえるわけだが、ではせっせと「勉強」までして何を探しているのであろうか。私は「新し物好き」というわけでもない。ビリー・アイリッシュには感銘を受けたが、K-POPにもテイラー・スウィフトにも興味が湧かない。思うに、琴線のどこかに触れる、ワクワクする「未知のもの」を探しているのである。仮に古くたって「未知」であれば、それは私にとって「新しい」。考えてみれば本だってそうだ。「気に入ったものを何度も」という読み方を私はしない。古今東西、常に読んだことのない本を開きたい。これらはつまり「滞りなく流れる程度には動脈が軟らかく保たれ、前頭前野にどうにか血が通っているその証左」ということではなかろうか。だとしたら、なんとも嬉しいかぎり。むやみな「若作り」というのはどうにもいただけないが、だからといって無防備に「老い」に飲み込まれるのも御免こうむりたい。
とにもかくにも雪の季節は終わり、それに応じて私の生活の軸も東京に移る。とはいえ3月にせっかくこれだけ雪が降ったんだもの、4月に一度くらいはGWまで開いているスキー場に足を運び、42日目の滑走をもって今シーズンを締めくくりたい。ああ、もうすぐ隠居の身。薄着で滑る春ボードってえのもこれまた乙なものさ。