隠居たるもの、不穏な響きに身を震わせる。2024年11月12日午後6時、私たち夫婦は墨田区は菊川駅近くの映画館 Stranger™️で、関心を持ったまま観られずにいた「関心領域」の上映が始まるのを待っていた。江東区に位置する我が庵から、途中に片側三車線の三ツ目通りを渡り区境をまたいでこの映画館まで、歩いて5分というのは大袈裟だが7分はかからない。かつてパチンコ屋だったこの建物が映画館へと変わったのは2年前の9月、そろりそろりとコロナ禍の出口が模索され始めたころのことだった。近隣の者みな「え?こんな下町に映画館 ⁉︎」と驚いたものだ。このひと月で私は3度も足を運んでいる。もはや「常連」といって差し支えない。しかし2年前の営業開始早々から通っているのかというとさにあらず、実はひと月前に韓国映画「密輸1970」を観に訪れたのが初めてだった。

49席の小さな映画館

小さいとはいえこんな近所に映画館ができたことは大変に喜ばしい。ではなぜに、2日に一本の割で映画を観る私が2年も足を運ばずにいたのか。貸しビデオ屋の力を借りて「映画好き」を開花させたことの名残とでもいえようか、私の映画鑑賞のほとんどはプロジェクターを介した自室で酒を飲みながら、そもそも劇場に足繁く通うという習慣を持ち合わせていない。そこにもってきて、Stranger™️にかかるラインナップが肩肘張っていて今の私にはちょっと「マニアック」過ぎた。例えば満を持してとばかり「ジャン・リュック・ゴダール特集」をもってして開館したのだが、ゴダールなら若き日に貸しビデオ屋から借りて順繰りに観たし、これまでに何度もあちらこちらで彼の映画に対する批評も読んできた。つまり、狙いは理解するものの、いささか新鮮味に欠けていたと言わざるを得ないのである。

「密輸1970」

今年の春くらいからだろうか、Stranger™️の前を通りかかって「あれ?」と振り返ることが多くなった。例えばヴィム・ベンダースの最新作「PERFECT DAYS」がかかり、またその関連でDJパーティーが催されたり、はたまた小泉今日子のトークショーが企画されもした。そのうちあの過酷な夏になって白馬に引きこもりがちになりそんなことも忘れた。しかし涼しくなり始めて東京中心の生活に戻り、再び「あれ?」と振り返る。さもあらん、検索してみると2月にオーナーチェンジしていた。一つのスクリーンに、6本くらいの映画を、時間を変えて毎日一回だけ上映するいわば「変則的シネコン」であるStranger™️、そのラインナップが新旧バリエーションに富んだものに生まれ変わっていたのである。かつて鶴田浩二は「古い奴だとお思いでしょうが 古い奴こそ新しいものを 欲しがるものでございます」と歌った。そう、学生さんが教養を積むために古典ともいえる映画を観るのはいいが、若い子に比べて格段に老い先が短い私たちは新しいものを観たい。こうでなくっちゃいけない。そんな折にかかったのが韓国映画「密輸1970」だったのである。

シニア割引(60歳以上)は1,300円

頻繁に劇場に映画を観に行く大学時代の文学部ドイツ語Q組の友だちがグループLINEで「とても面白かった」と教えてくれていたのに、ロードショー中に観に行くことができなかった映画だ。いよいよ果たすStranger™️デビューにふさわしい。まずはHPで座席指定の上チケットを購入する。還暦を過ぎた私はシニア割引の対象者。墨田区と江東区在住者に適用されるご近所割引1,500円よりも安い。上映に先立ち、設立時のクラウドファウンディングに協力した法人や個人の名前が映写され、あらためて謝意が示される。あ、私たち夫婦が眼鏡をあつらえたDRAMATIC TOKYOの名があるではないか。「ちくしょう悔しいねぇ、そんな寄付を募っているのを知っていたならば私たちだってなぁ」などとあくまで手前勝手に地団駄を踏む。鑑賞後は併設されたカフェで映画談義をしてくれとも促され「へえ」と感心する。では肝心の「密輸1970」の方はというと、半世紀を遡る開発を錦の御旗とした朴正煕独裁時代の田舎の海辺町、新設された工場が垂れ流す廃液で海産物は壊滅状態、商売上がったりの海女さんたちが密輸に手を染め海中で男の悪党どもと大立ち回りを演じる。当時の韓国歌謡をサントラとしたハラハラドキドキの大活劇、何よりも音響がいい。映画ってえのはやっぱり映画館で観るものだ。

SUPER HAPPY FOREVER

するとやはり大学時代の文学部ドイツ語Q組の他の友だち(彼の生業は映画監督だ)が、グループLINEで「そのStranger™️で今かかってる『SUPER HAPPY FOREVER』が良いよ」とこれまた教えてくれる。シニア割引でまた観に行く。青春期の終わりを迎えた者たちの伊東での奇跡のようなひとときがなんとも儚い。カップヌードルがあそこまで美味しく幸せそうに見えることもそうそうない(後日つれあいは一人こっそりカレーヌードルを食べていた)。近所に映画館があるからこそ知り得た名編であった。

そして「関心領域」である

76回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた作品だ。空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。時は1945年、アウシュビッツ強制収容所の所長を務めるルドルフ・ヘス一家は収容所と壁一枚で隔たれた屋敷で穏やかな日々を送っている。そして、窓から見える壁の向こうでは、大きな建物が黒い煙を上げている。音、煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から、壁ひとつ隔てた向こうが収容所であることが伝わってくる。ユダヤ人が虐待され虐殺される場面は一切ないが、塀の向こうから聞こえてくる音や大量に人を焼き空に流れる煙でその事実は否応なく知れる。これまでそして昨今の世界で起きていることを顧みるとき、良き家庭人が同時に他の世界で虐殺者であることは稀なことでもない。しかし壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるというのか。音響のよい劇場でなければその不条理を体感できない衝撃的な作品であった。原題「THE ZONE OF INTEREST」に対して邦題「関心領域」というのも潔くていい。埋めたくなる余白のようなものは、観た者自身が埋めなくてはいけない映画だ。

これから公開される作品を紹介しよう

近所にいい映画館があるだけで、ここまで暮らしに彩りが生まれるとは想像もしていなかった。とはいえ、ここで取り上げた作品はいったんロードショーを終えて、なんというかStranger™️に下りてきたものだ。たまにはこれから公開される映画を紹介しよう。「SUPER HAPPY FOREVER」を教えてくれた文学部ドイツ語Q組の友だち吉田大八監督の新作、2025年1月17日公開の「敵」だ。先頃の東京国際映画祭において、筒井康隆の小説を原作とするこの作品は、グランプリたる作品賞、加えてさらに監督賞、その上なんと主演男優賞の三冠に輝いた。もちろんおっとり刀で私もロードショーに駆けつける。そしてしばらく経ってStranger™️にかかったらどうするか。ああ、もうすぐ隠居の身。常連たるもの、もちろん5分と少し歩いて観に行くさ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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