隠居たるもの、愉しみにひそむ毒の罠。それは2025年6月7日の晩のこと。すでに夕食を終えたがグラスにはまだ少し酒が残っていた。ここ3日で大きく進捗した庭仕事の経過を自賛しつつ、それぞれのグラスに私たちは赤ワインを注ぎ足した。岩塚製菓のTHEひとつまみ えびカリの小袋をひとつ、お供とばかり小皿にあける。スパイシーなカレーあられが酒に合う。少しだけ混ぜられたピーナッツもいいアクセントだ。「今滞在中にすべきことはもう玄関アプローチの草刈りくらい?」などと翌日に残っている作業を確かめていると、右手首のあたりがムズムズとする。日中に肘のあたり(しかも両腕ともに)がやはりムズムズして蚊にやられたかと忌々しく思っていたのだが、どうやらそれだけで済んではいなかったようだ。パジャマの袖をずり上げてみる。赤くぷっくり腫れ上がった箇所がある。どうしたものか漫然と考えていると、赤い発疹が新たにあれよあれよとそのそばに浮かんでくる。ムズムズは腹部にも伝播する。パジャマの裾をまくってみると、入浴時にはツルッとしていたはずのお腹に、数えきれないほどの赤い発疹がゾワっと湧き立っている。私はえも言われぬ恐怖におののいた。

もしかしてピーナッツアレルギー?
虫がついていた可能性もあるから、洗濯しておろしたばかりとはいえ着ていたパジャマは脱ぎ捨て、食事前に風呂に入ったばかりではあるが念のためあらためて身体も洗い流す。鏡で確かめるとそれぞれの赤い発疹がみるみると大きくなっている。痒くなり始めてもいる。「とにかく痒みにはこれが効くよ」と、友だちが医師に処方され以前に置いていってくれた軟膏が一本あった。調べてみると「アレルギー性皮膚炎に効く」とある。旱天の慈雨とはまさにこのこと。土曜日の夜の山の中での発症だ、ここはひとつこの軟膏一本を頼りに冷静に対処しなければならない。アレルギーだとして幸いにも呼吸に支障をきたすなどアナフィラキシー反応までは引き起こされていない。専門医によらなければ原因は特定できないにしても、ひとつ間違えると致命傷になりかねないから、細心の注意を払う必要がある。うっかりアレルゲンを再び摂取したりはたまた触れたりしないよう、つれあいがその日に私たちが口にしたものを朝から順に書き出す。

そもそも脱ぎ捨てたパジャマは部屋干しにしていたのだし、日が暮れてからずいぶんと時間も経つ。虫というのはピンとこないし、書き並べられた食事内容を見てもこれといったものが見当たらない。食べたとたんにゾワっとしたことを考えれば、岩塚製菓の「THEひとつまみ えびカリ」が最も怪しい。パッケージによると、この菓子に含まれるアレルゲンは「えび、ピーナッツ」。この夕食以外にも少量ながら口にしていたから原因がえびとは考えづらい。となると犯人はピーナッツ?大人になって初めて食物アレルギーを発症する人もいると聞く(実際に友だちの奥さんが何年か前に唐突に小麦アレルギーを発症した)。ピーナッツ自体は好物というほどでないけれど、それを使った料理を指折り数え、「もう担々麺を食べることができなくなるか…。ああ、あんときあの店で担々麺を食べおくんだった」とか、なんとも切ない心持ちになるのだった。

「外でなんかしました?」
6月9日月曜日の夜に帰京。この日の夜で軟膏は使い切ってしまったが、痒みはいまだ容赦ない。翌6月10日の朝一番、近所の皮膚科医院で、私は状況をつまびらかに説明していた。これからの人生で禁忌すべき料理や食材などもご教示いただかなければならない。問題はいたって重大である。なのに先生は「ふん、ふん」と相槌を打ちつつも、あまり熱心に聞いているようにも見受けられない。電子カルテから目を離し面と向かってようやく口を開いたと思ったら、「外でなんかしました?」と呑気なことを聞く。「そりゃあ山の中の家で過ごしていたわけですから」と答える私に、シャツをめくって腹部の発疹を見せるよう指示をする。いくらか赤みが引いたとはいえ痛々しく並んだ発疹を目にするなり先生はズバリと断言した。「どこから見てもこれは虫、毛虫ですよ。食物アレルギーは発作が過ぎれば皮膚に症状も残りませんし、還暦を過ぎてから初めて出ることはやっぱりあまりない。どこかで毛虫の毛に触れちゃったんだね」

電子カルテには「チャドクガ」と書き込まれていた。どこか拍子抜けしている私に、先生は続けざま「虫にやられてもね、すぐに出るとは限らないんです。1日過ぎてから出ることだってある。お酒を飲んで身体が温まったタイミングで出たんじゃないかな」とたたみかける。気を取り直して「友だちにもらったこれを塗って凌いでいたのですが、良かったんですかね」とカラになった軟膏を見せると、「ああ良かった。私もこれを処方しようと思っていたところです。5本出しますから、痒かったら一日に三度でも四度でも塗っていいですよ。とにかく毛虫の痒みは猛烈なんでね、飲み薬も出しておきます。あと一週間もしたら収まるでしょう。それでも収まらなかったときはまた来てください」やれやれ、昼食に担々麺が食べたくなった。

毛虫皮膚炎とチャドクガ
毛虫皮膚炎は蛾の幼虫である毛虫の毒毛に触れることによって生じる。すべての毛虫が毒を持っているわけではないが、皮膚炎の原因となる毒毛を持つ蛾や蝶の仲間は日本国内に50種類ほどいると考えられており、有毒毛を持つのはドクガ、チャドクガといったドクガ類で、その毒毛に触れると赤い発疹がたくさんでき、強い痒みを伴う。毛虫に触れるだけでなく、自然に抜け落ちた毛が皮膚や衣類などに付き、その部分をこすることで皮膚に刺さったりして症状が出る場合もある。毛虫皮膚炎の中で特に多いのがチャドクガ(茶毒蛾)によるもので、おもにお茶の木に発生する毒蛾であったことからその名前がついた。庭木や公園のツバキ、サザンカなどの樹木のまわりによく生息していて、幼虫の全身には長さ0.1〜0.2mmほどの毒針毛が1匹になんと50万本程度も密集して生えている。庭仕事や木の刈り込みなどでうっかりこの毛に触れてしまうと皮膚炎を発症する。また直接触れなくとも、風に飛ばされた毛が衣類についたり、毛虫がのっていた葉っぱを触ったりすることでも症状が出る。チャドクガは年に2回孵化するため、幼虫が発生する4〜6月と8〜10月頃は、最も毛虫皮膚炎にかかりやすい時季だ。ただし、チャドクガは卵の段階から成虫になるまでずっと毒針毛を持っていて、脱皮した後の抜け殻に触れることが発症のきっかけにもなるので、時季を問わず気をつける必要がある。(日比谷ヒフ科クリニックのHPから編集して引用:https://www.hibiya-skin.com/column/202211_01.html)

庭仕事の愉しみ
すっきりと晴れ、「一年のうちに数回」というほどの景観に恵まれた6月5日、私より一足遅れてつれあいが中央線特急あずさ5号で白馬にやってきた。それからの庭仕事を追ってみる。家やウッドデッキを薄黄色く覆っている、あたり一帯のアカマツが撒き散らした花粉を、まずはケルヒャーで洗い流す。ひとつ156円のブロックを4個買ってきて、少し斜めに庭に埋め込み、冬の役目を終えた雪囲いの板を、そのブロックの穴に差し込む。薪や枯れ枝を積んで庭での焚き火のための薪ラックをこしらえた。殺風景極まりない隣地との鮮やかな境界点にもなる。もっとも生命力旺盛なこの時期、玄関アプローチの草刈りに4日かかった。気温が17℃を超えると鳴き始めるハルゼミが伴奏する。この一連の過程のどこで、私は毛虫の毒毛に触れたのだろうか。

丸太と散歩する男
「丸太と散歩する男」、つれあいがケラケラと笑って下の写真を撮っていた。山暮らしも板についてくると、玉切りされた丸太をペットにして、情を通わせつつ散歩を楽しめるようになる。というのはもちろん嘘で、少し下ったところに倒れた木が玉切りにされ打ち捨てられていたので、新たにこしらえる薪ラックの支えにうまいこと使えないかと考え、その重さに唸りながら抱えて持って上がったものの、なんとも違和感しか醸し出さず、もとあったところにこっそり返そうと転がしているところである。つまりは、人が出入りしないこの打ち捨てられた一帯にある丸太に毛虫がついていたのだろう。しかも持って抱えたのだからそりゃあ毒毛もまとわりつくというものだ。

利き腕である右腕と右腹を支えにして抱えたので、腕といっても左腕より右腕の方が、腹部といっても左側より右側の方が、わかりやすくひどい(還暦過ぎの初老の男の裸体を見せられたところで困惑するだけだろうから、「その証拠に」とわざわざ撮影して掲載することは遠慮しておく🤭)。やはり「拾い食いするとお腹を壊す」のである。そして、つれあいによく「またそんななめた格好で庭仕事に出てきて」と嗜められる私が、とうとう「痛い目にあった」のである。しかしまあ一過性の災難で済んで御の字。庭仕事にもっともいい季節がこれからやって来る。終わってからのビールが美味しいだろう。ああ、もうすぐ隠居の身。つまみはもちろん岩塚製菓のTHEひとつまみ えびカリである。