隠居たるもの、羽織りもののチョイスに頭をひねる。2025年10月24日午前10時24分、ジムに行こうとトレーニングウェアの上にパタゴニアの綿入れジャケットをひっかけエレベーターホールに出てみると、隣の部屋で暮らすご高齢のご夫婦が先客として下から昇ってくるエレベーターを待っていた。「冷えるとなると急だから困っちゃいますね」と奥様が私に話しかける。すぐにやってきたエレベーターに乗り込みつつ「季節がおおむね夏と冬だけになってしまいましたからね」と応じると、今度は旦那さんが「そうそう、もう『四季がある日本』ではなくなってしまった」と返してくる。このご夫婦の部屋の呼び鈴を鳴らし、「隣に引っ越してきました」とご挨拶してから23年と半年になる。思い起こしてみれば、その頃にはまだ確かに「四季」はあった。それがどうだ、10月だというのについこの間まで半袖半ズボンで過ごせたのだ。季節の移ろいをゆっくり五感で味わう余裕なぞもはやなく、今や変わり目は急激な気温の変化を伴い唐突にやってくる。

「きぃせつのかわりめを〜♪」
かつて「きぃせつのかわりめを〜♪」というサビを持つ歌謡曲があったことが頭に浮かぶ。男性だったような気もするし女性だったような気もするが、はたして誰が歌っていたのだろう、そしてどんなストーリーだったんだろう、サビ以外いっこうに思い出せない。エレベーターが一階に降りると、以前より歩くスピードがゆっくりとなったご夫婦が「どうぞ先に行って」と私を促す。ガラス張りのジムの中からその様子をよくお見かけしていたから、これからお二人で近所のスーパーに買い物に出向かれることを知っている。尋ねてみたことがないから正確な年齢は知るよしもないが、23年と半年前にご挨拶にうかがったとき、お二人は今の私たち夫婦より少し若かったくらいと推察する。そして半年後には「長い間、お世話になりました」とまたご挨拶することになる。一階廊下と玄関スペースに漂う外気に、綿入れジャケットで「ちょうど良かった」と安堵する。

植栽リニューアル
このところ金木犀が香る玄関アプローチを歩くたび、リニューアルされたばかりの植栽にあらためて見入ってしまう。築40年のこのマンション、今年の2月から9月まで大規模修繕工事が行われていた。ほぼ半年にわたってベランダの向こうがシートに覆われていてそれはそれでストレスフルだったわけだが、それがようやく終わっていささかなりとも涼しくなった10月を待って、今度は当マンション初めての植栽リニューアルが敢行された。バランスを著しく失って景観を重くしていた木を伐採抜根し、枯れた木々を丁寧に間引きし、弱くなった土に肥料を足し、しなやかに風になびくシャランとしたやつを新たに植え込み、場所によってはロックガーデン風に整える。それはそれでけっこうな「大工事」、お色直しを施した建物に一新された植栽が花を添える。過酷な夏とストレスフルな大規模修繕がほぼ同時に終わったことも相まって、リニューアルされたばかりの植栽を前に身体を伸ばして大きく深呼吸、そんな心持ちになるのもむべなるかな、なのである。

30年ほどのおつきあい
ここで暮らす残り半年間を合わせて計算すると、私たち夫婦がこのマンションで過ごした歳月は24年。そのうちの21年、輪番制が採用されていないこともあり継続して私は管理組合の理事をおおせつかってきた。入居時にお金がなくていっぺんにリフォームできず、みちみち貯金しては小出しに何度も追加で工事を重ね、そのたびご近所に「しばしまたご迷惑をおかけします」と頭を下げているうち、当時に理事長を務めておられた真下の部屋の方に「住まいをよりよくすることに熱心なところを見込んで頼みたい、理事にならない?」とスカウトされ、以来ずっと携わってきたのだった。これだけの期間だ、もちろん理事長や副理事長を務めた時期もある。この間に2度の大規模修繕工事、また古いマンションにとっては大規模修繕以上に一大事業である配管更新工事、それらをやっとこさっとここなしてきた。そしていよいよその最後の仕事が「植栽リニューアルを見届けること」、とまあこうなったわけだ。そもそもこの計画は若い理事たちが大規模修繕に合わせ「あまりにも古くさい植栽を今風になんとかしたい」と望み、管理会社が適当な業者をリサーチし「ここはどうか」と理事会で紹介するところから始まった。そこで上がった社名を耳にして私は驚いた。30年ほどのつきあいとなる古くからの友だちだったからだ。

23年と半年前、彼女は引っ越したばかりの私たちの部屋に、甕に入れた竹の鉢植えを「お祝い」にと持ってきてくれた。一緒に贈ってもらったリュウビンタイはすでに天寿をまっとうしてしまったけれど、この竹は今もすくすくと育ち続けている。また、この間に彼女が主宰する庭園設計会社も成長しすっかり大きくなった。「あなたが今オファーを受けているマンションってさ、竹を持ってきてくれたうちのことだよ?」と連絡すると「え、そうだった?あ、そうだ!」と彼女も驚く。縁は異なもの味なもの、話はトントン拍子に進み、あれほどの売れっ子が当マンションの植栽を刷新してくれることになった。作業中常駐しているわけではなかったけれど、確認のため訪れていた友だちと何回かは顔を合わせ、仕事の邪魔にならない程度に「あの竹は私たちと一緒に銭湯の二階に引越しさ」などとあれやこれや話に興じることもできた。もちろんリニューアルなった植栽は見違えた。そしてあとひと月半で今年度の理事会の任期は終わり、長きにわたった私のお役も御免。なんとも乙な花道だ。

桔梗、最後の渾身の一輪
散種荘の庭には園芸種ではなく野生種の桔梗が植っている。小さなポットを4年前に道の駅 白馬で見つけ、「メロン坊やゆかりの花だから」と買い求めたものだ。これがまた驚くほどにすくすくと育ち目を楽しませてくれる。花期は夏の7月から9月なのだが、先日10月16日に二週間ぶりに散種荘を訪れたところ、一輪だけぽっかりと花を咲かせていた。健気にも最後の力をふり絞って私たちの到着を待っていたのだろうか。しかし当然のこと白馬では「季節の変わり目」はひと足早く訪れる。「この秋の栂池自然園の紅葉はいつになく美しい」という噂が耳に入るころ、今年最後の桔梗は力つきたのかゆっくりと萎み始めた。

特別天然記念物 ニホンカモシカ
そんなころ、中腹まで赤くなった山を眺めながら近所を散歩していて抜き差しならない視線を感じることがあった。白馬防災ナビというスマホアプリから日々に目撃情報を受け取ってもいるから「すわクマか?」とおそるおそる首だけ回してみると、なんと特別天然記念物 ニホンカモシカだった。カモシカというからには鹿の仲間なのかと思いきや、彼らは実はウシ科。驚かさないように小さな身振りで「おいでよ」と誘ってみるが、首をかしげて反応しはするものの、一定の距離をとったまま動こうとはしない。これまでにスキー場の山中、コースから遠く離れて雪降るなか、同じような風情で立つ姿をよく見かけたものだ。ようやく秋を感じたのも束の間、あと2ヶ月もしたら、こちらではそんな光景をまたリフトから目にすることだろう。

季節の変わり目をあなたの心で知るなんて
さて「きぃせつのかわりめを〜♪」、あれは誰が歌っていたのか問題。調べてみたら、高田みづえが大関 若嶋津と結婚する一年前、もう少しでこのマンションが竣工しようかという1984年に発表した「秋冬(しゅうとう)」という曲だった。正しくは「季節の変わり目をあなたの心で知るなんて〜♪」、秋から冬にかけてのどことなく哀しい時節に恋人に別れを告げられる、という曲だった。今のところ私に別れを告げそうな人は思いあたらないから必要以上に哀しくもならないが、誰の曲かわかったのでとにかくスッキリした。そして行く末の展望がはっきりし春には引っ越しも控えているこの季節の変わり目、衣替えに乗じてこれから着ることもなさそうな服をせっせと選別しているところ。ジムでギックリバッタリやっている間、自分のものを買取業者に持っていくというつれあいに頼んで、いくらか私の分もついでに持っていってもらった。これを皮切りにしばらく「断捨離」に勤しむこととなろう。ああ、もうすぐ隠居の身。私たち夫婦の「季節」はごろりと巡っている。