隠居たるもの、新車にまたがり風を切る。2026年11月4日、秋になって雨ばかり降る白馬において久方ぶりに気持ちのいい晴天、山の頂も雪をかぶってくっきり神々しい姿を現した。このあたりでは文化の日を終えると紅葉の盛りが過ぎて、冬を迎えるまで「観光地」としては静まり返る。長い休みをとる施設や店も多い。そして最大の観光シーズンに向けて、この間に設備をメンテナンスし、あらゆることをゆっくりと整える。私はひっそり閑としたそんな村中を自転車で縫って走る。山間でサドルにまたがるのはおそらく一年ぶりのこと。最適な陽気となる季節は他にもあるだろうに、物好きにも冷え込み始めたこんなタイミングで何故にこんなことを始めたのか。松本のショップから「8月初旬に予約注文してくださった新しい自転車がようやく届いきました」と連絡があったのが10月30日、それを車で引き取りに出かけたのが11月3日、となれば冬が来る前に駆け込みで乗っておきたいとなるのは人情だろう。

14年ぶりの新しい自転車
我が家にとって自転車は日常にまつわる移動手段でなくどちらかといえばレジャー道具、だから日々に激しく消耗することもない。写真アプリで遡って確かめてみると、最後に新しい自転車を買い求めたのは14年前となる2012年。東日本大震災から1年、母を看取ってからは半年ほどが経った48歳になろうかという春のことだ。あちこちに持ち運んで、ちょこまか軽快に走って、そんでもって大きく身体を伸ばしてみたい、そんな心持ちで選択したのは折りたたみ自転車だった。しかし小回りの利く自転車が白馬で重宝する場面はさしてなく、だからといって東京の銭湯の二階にはたたんだとしても置く場所がない。また白馬には最初からCannondale(キャノンデール)のクロスバイク、20年選手となるBAD BOYが置いてある。だからその折りたたみ自転車は、暮らしぶりが大きく変わった先の春の引越しに際し、姪夫婦にあげてしまった。しかしここで問題がひとつ出来する。白馬ではエクササイズを兼ねて頻繁に自転車にまたがりたいのにも関わらず、寄る年波で今や頚椎椎間板ヘルニア(けいついついかんばんヘルニア)となった私に、BAD BOYはそぐわないのである。

山の中ではやっぱりマウンテンバイク
上の写真をご覧になってお気づきになられるだろうか。アスファルトというのは長きにわたり雪に埋もれていると著しく劣化する。散種荘周辺の道など「長きにわたり」どころか一年のうち3ヶ月ほどは雪に埋もれっぱなし、だから亀裂が四方八方に延びて段差まで生じてボコボコとなる。しかし交通量の多い主要道路でもないから補修などそうそうしてはくれない。自身を支持しなかった首長をいただく地方自治体の「道路予算を削ってやった」と高らかに自慢し先日やっとのこと更迭された簗和生(高市早苗総理が「知恵袋」と呼ぶところの「私の大事なヤナちゃん」だ)、あの「絵に描いたような小物」が大臣のままだったら、私が生きているうちにこのあたりの道が舗装され直すなんて期待からしてまるっきり持てなかったに違いない。そんなところにもってきてCannondaleのBAD BOYはクロスバイク、街乗りを主眼に製造されている自転車だから路面から伝わるショックを吸収するサスペンションがない。首の骨の間にあるクッション(椎間板)が飛び出し、そこを通る神経や脊髄を圧迫するのが頚椎椎間板ヘルニア。右肩から腕にかけての私の神経痛はこの圧迫から生じる。こんな山道をサスペンションのない自転車で下り降りていると、その衝撃がいちいち首に響き神経痛が悪化する。

松本のスポーツ自転車専門店 BIKE RANCH
だからサスペンション、とりわけ前輪にかかる衝撃を吸収するフロントサスペンションのついたマウンテンバイクを欲し、CannondaleのBAD BOYは遊びに来た友だちが一緒に自転車に乗りたがったときのためのセカンドバイクとして取っておくことにして、私はあらためてマウンテンバイクを買い求めることにした。レジャーとしてのエクササイズが主目的だから電動アシストはついていなくていい。幸いご近所さんが白馬でアウトドアスポーツ用品を扱う会社にお勤めで、インターネットで注文すればSPECIALIZED(スペシャライズド)というアメリカはカリフォルニアのメーカーのバイクをその店舗で受け取れる。そしてスポーツ自転車界隈で年毎のニューモデルが売り出されるのは春なのだ。だから私は春から初夏にかけて、SPECIALIZEDのホームページをせっせと開けていた。だのにどうしたことか、品物自体がオンラインショップにまったく上がってこない。

調べてみると日本では今、遠乗りをするロードバイクや街乗り主眼のクロスバイクは売れるのだけれど、山で遊ぶマウンテンバイクは実のところサッパリで、出荷が極端に絞られるのだという。しびれを切らしてその他あちこちさらに調べてみると、車を購入したディーラーのすぐ近く、松本にBIKE RANCH(バイク ランチ)というスポーツ自転車専門の店があった。そこはSPECIALIZEDの他にもTREK(トレック)というアメリカはウィスコンシンに本社を置く世界最大規模の自転車メーカーの商品も扱っているという。マウンテンバイクはやはり本場の米国製に限る。定期点検の用事があって8月初旬にカーディーラーに出かけた帰りがけ、冷やかしにそのBIKE RANCHに立ち寄り情報を収集してみることにした。いかにも自転車乗りという感じの店員をつかまえて尋ねてみると、どうしたものか悶々としていた問題を、そのアンちゃんがいとも簡単に解決してくれた。

「そうなんです。マウンテンバイクはあんまり売れないんで今はたくさん入ってこないんですよ。SPECIALIZEDはまた特にね…。確かに各社その年のモデルを売り出すのは春で、昔は日本に入ってくるのもその時だけでした。でも近ごろは春先だけとは限らず秋に入荷することもあります。だからホームページ上で『在庫なし』と売り切れたようになっていても今年中に入ってくる可能性はまだあるんです。TREKのMarlin7ですか?えーと、ちょっと待ってください。あ、10月半ば以降にあらためて入荷する予定がありますね。どうします?」
となると手元に届くのは早くても10月後半だ。冬になると寒くて凍えるばかりだから、ここで発注したところで今年のうちに新しい自転車に乗ることができるのはほんの数回だろう。だとしたらさらに新しいモデルが発表される来年の春を楽しみに待った方が得策という考え方もある。しかし私は迷わなかった。自転車の年毎のモデルチェンジなど機能的には実のところ微々たるものでカラーが変わるくらいが関の山、それに比してこのご時世だ、「ニューモデル発表を機に価格を大幅改訂」なんてことは容易に想像される。グッと値上げされることはあっても値下げされる可能性はまずない。そう、インフレの時代に生きているのだ。私は即座に「予約する」と返答した。

乗り味のいい自転車
私と違って今シーズンも自転車に乗っていたつれあいに、彼女が発見した絶景ポイントに連れていってもらう。なんともこいつは乗り味のいい自転車だ。意図をもって行う加重をフレームが即座にかつしなやかに吸収し、車輪が向かう先に的確に反映してくれる。「乗り味」としか表現しようのないこの感覚こそスポーツ自転車の醍醐味。山を上り下りするにしても12段もギアがあれば充分で、その変換についてもストレスがない。さすがTREK、いい自転車を作る。鮮やかな赤からエンジにグラデーションするカラーとシルバーのメーカーロゴ、これも渋い。腕の短い私からして幅がありすぎるハンドルは春になって点検に持ち寄った際にBIKE RANCHで短く切ってもらえばいい。とはいえ不満がまったくないわけでもない。それはただひとつ、フレームにくっきり一文字「7」とステッカーが貼られ、その上からクリア塗装が施されていること。この「7」は車種名であるMarlin7の「7」と私は理解するが、車種名に興味などない方がとんでもなく異なった連想をするのではないかと危惧しているのだ。このフレームカラー、サッカーのポルトガル代表のユニフォームカラーに近い。そこに「7」…。背番号は常に7で、CR7という愛称を持つサッカー選手がポルトガルにいる。「ははあ、ずいぶんと思わせぶりだねぇ。クリスチャン・ロナウドの熱狂的ファンなんだ」と勘違いされないか気が気でない。申し訳ないが彼は私が最も苦手とする選手なのだ(その理由についてはご想像ください)。しかし、まあそんなことどうでもいいか…。

夜になってしとしと降り出していた雨は明け方にはやんでいたようで、11月6日の朝に起きて窓から外を確かめてハッとした。すぐそこに虹がかかっていたのだ。ああ、もうすぐ隠居の身。午後に暖かくなったなら自転車にでも乗ろう。