隠居たるもの、その庵に風情をまとう。産まれてからこのかた、隅田川の近く、それも東岸でしか暮らしたことがない。若い頃はふざけて「隅田川の西に越すほど落ちぶれちゃいない」などとうそぶいていたものだ。今は深川に腰を落ち着けている。まあ、このところの若者が「地元」から離れようとしないのとどこも変わらない。
名橋はお色直し中
暑くもなければ寒くもなく、落ち着いた陽気で可能な日、まだ隠居にたどり着いていない我が身は中央区の勤務先からゆっくり歩いて帰宅する。日本橋から水天宮、箱崎を抜けて清洲橋。東京スカイツリーを左に望みつつ川を渡り、江東区に入って隅田川テラスに降りる。そこから眺める清洲橋、シートに覆われて久しい。あまたの映画・ドラマのロケ地となった名橋は、2020年東京オリンピックに向けて無理矢理お色直しの真っ最中。隅田川テラスを歌川広重の浮世絵「富士と吊るし亀」の萬年橋で上がり、そこから先は水門を横目に小名木川をなぞる。
白鬚の原っぱ
子供の頃はもっと上流の墨田区は白鬚橋の近くに住んでいた。住居から大きな通りをはさんだ向こう側は広大な原っぱで、その向こうが隅田川。川を渡ったそのまた向こうは「あしたのジョー」の舞台だった。原っぱでほぼ毎日遊んでいた。野球をしたり、ひたすらバッタを追っかけ回したり。あの頃は年齢も様々な子供同士が、自分たちだけで遊ぶのがまだ当たり前だったから、親父に遊んでもらった記憶はほとんどない。1919年生まれで私が産声をあげた時には45歳だった親父、その年齢ギャップもあるにはあったのだろう。今から46年くらい前で私が9歳くらいのことだったと思う。その日はたまたま遊び相手がいなかったのか、私のバッタ獲りに親父がつき合うことになった。どういうわけかたくさん獲れた。虫カゴをバッタでいっぱいにしながら、もっともっととムキになって草むらを荒らす息子に親父は声をかけた。
「いい加減に獲れよ。」
「ちゃんとやらないでデタラメにやれ、くだらないことにムキになるな」、親父は辟易してそう苦言を呈したのだと短絡的に解釈していた。だけど、今になると親父がなにを言わんとしていたのかよくわかる。言葉の通りだったのだ。いい加減(グッド バランス)で収めておけと。案の定、その日に獲った虫たちは、ごった返すかごの中で翌朝に死んでいた。あの頃の親父と同じような歳になった、いやもう上か。現在、あの広大だった原っぱには巨大な都営住宅が建っている。親父が天寿を全うしてから4年半、あの日のことを近頃よく想い出す。
もうすぐ隠居の身、隅田川のほとりで「いい加減」を探る日々である。