隠居たるもの、蠢動(しゅんどう)の兆しに身を任す。世情は今日5月25日に緊急事態がようよう解除されるとかまびすしい。どんよりと雲がかぶさり、なにを羽織ろうか思案するほどに気温が低かった1週間が過ぎて、昨日24日の日曜日は気持ちよく晴れ渡った。お天道様の下で心身ともにゆっくりと伸びをしたいところだが、こういう日こそあらためて気を引き締め直すに越したことはない。「浮かれポンチ」になって元の木阿弥ってのは御免被りたい。だからこそ、ごった返すに違いない日中の公園はこの日の散歩のコースから外したのだ。にも関わらず、夕方にさしかかるとメロン坊やから呼び出しがかかる。「大叔父、木場公園で落ち合いましょうぜ」と。
メロン坊やはニンマリと笑う
熊本で暮らすつれあいのご両親が、今月に入って大きなメロンを送ってくださった。ありがとうございます、甘くてとっても美味しかったです。このメロン、私たちの近所に暮らすサッカー部後輩と姪の若夫婦、つまりご両親からすれば孫夫婦の家にも届いている。ここに育つ、この世に生を受けて8ヶ月になる姪孫(てっそん、ご両親からすればひ孫)は、ずりハイをおぼえている真っ最中。日々「ご覧なさい!」とばかりにはいずり回り、ロボット掃除機ルンバのように部屋を綺麗にしてくれるそうだ。メロンが届き、箱が開いて甘美な香りが漂ったその時、甘い蜜に誘われた彼は、父親のジャージを引きずりながら香りの元に突進し、箱の端に手をかけ上体を起こしながら標的を覗き込み、そしてニンマリと笑った。配信されてきたその瞬間の写真を見るにつけ、その笑顔とメロンのまん丸具合があまりにも「瓜ふたつ」で、私はこの子のことをそれ以来「メロン坊や」と呼んでいる。
メロン坊やのお誘い
この世情である。近所で暮らしているといえども、お互いの居宅を行き来することは避けてきた。しかしながら狭い界隈で「自粛」生活を送る者どうし、ウォーキングや散歩の途上でばったり出くわしてしまう。とりわけてもこの2週間なぞ、うっかりすると1日おきに顔を合わせてしまう。
「大叔父、陽も長くなったことだし、もうこうなったらいっそのこと日暮れ前にちょこっとだけ顔を合わせましょうや」とメロン坊やが言うわけはないのだが、こちとらコモンセンスはわきまえているから心配はご無用。お互いにテイクアウトのクラフトビールやらツマミらしきものを持ち寄って、昨日の日曜もその前の日曜も、人のはけた木場公園でゆったり隔たりをとりながら、暮れなずむ初夏の陽気をほんのしばらく楽しんだ。5月のビールがいちばん美味しいことを思い出す。
まだまだメロン坊やには焼肉はいけないぜ
親愛を交わし合い、酒も入っていくぶんかいい心持ちになって、それぞれに帰路につく。こうなると夕食を自前で用意することが億劫だ。「どのテイクアウトを選ぼうか」公園からの帰りがけに馴染みの店を思い浮かべる。この夜に注文を出したのは大阪焼肉 炭照(https://tabelog.com/tokyo/A1312/A131201/13167729/)、時節柄テイクアウトを始めている。大阪の方が食べて「確かに大阪の焼肉だ」と首を縦に振るかどうかは与(あずか)り知らないが、ここのちょっと「クサい」味付けが好きなのだ。焼肉なんて3月6日に食べたきり。「ナムルの盛り合わせ」と「長芋のキムチ」、味付けされた「ロース」と「上ハラミ」および「塩リブ」の“生肉”をテイクアウトする。この店の「上ミノ」が好物なのだけれど、食中毒とかそんなところの配慮なのか、ホルモン系のテイクアウトはしていなかった。あったとしても、我が庵の調理器具で美味しく焼くのはまずもって難しいだろうが…。
「男はつらいよ 寅次郎恋歌」で切なくなりながら
感心した。うわっと炭で焼くわけでもないのに、仕方なくIHヒーターに乗っけた鉄のフライパンで焼いたもんなのに、やっぱり焼肉なのである。やっぱり金を取れるナムルなのである。長芋のキムチの汁なぞは、長芋を食べ終えて捨ててしまうのがどうにも惜しく、締めにそうめんをひと玉茹でてもらってそこにぶっかけてみたらなんともたまらない。もちろん木場公園からの晩酌の続きをしながら、BSテレ東で土曜日に放送していた「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie/8/)をBGMとして流す。池内淳子がマドンナの回、志村喬も出演する第8作である。この回は切ない、泣いてるさくらが切ない、「寅次郎くん、人は独りでは生きていけない」ポツリと話す志村喬が切ない。ついつい酒が進む…。
まだまだメロン坊やに焼肉はいけないだろうなあ。それに、今日は平塚にいるもう一人の姪孫の2歳の誕生日、いつしか君たちと一緒に七輪を囲める日を大叔父は楽しみにしているさ。それがいつになるかは皆目わからないが、炭照に上ミノを食べに行けるようになるのはもうすぐそこのことのようだ。また蠢(うごめ)きだす準備をしようじゃないか。ああ、もうすぐ隠居の身。新たな「日常」を創造するためにもさ。