隠居たるもの、焼き鳥片手に頭を捻る。2021年7月16日、東京で梅雨が明けた。NHK朝の番組「おはよう日本」で、気象予報士 檜山靖洋氏が前日とは打って変わって「今日は熱中症に厳重警戒、運動は避けてください」と警告していたから「梅雨が明けるのだな」と覚悟はしていた。してみたらどうだ、いきなり危険なほどの日差しである。これがこのところの東京の夏だ。それにしても気象予報士が「運動は避けてください」と警告する陽気でオリンピックが開催されるというのも一体全体どういうことか。どちらにしろ有観客で開催され熱中症で多くの人命が危機に瀕するという惨事は避けられたわけだが、午後4時30分に終えたアルバイトからの帰り道、いつものようにうっかり「徒歩」を選択した私自身がクラクラするという「危機」に瀕してしまった。
避難所として駆け込んだのは高橋の鳥末
午後5時といえども太陽の力が獰猛だ。通常時であれば、観念してどこぞの暖簾をくぐり、冷えた生ビールの一杯でもグッとやれば「今そこにある危機」から脱することもできる。しかし、この7月12日からここ東京はあらためて「緊急事態」と認定されたものだから、特効薬は「ご禁制の品」。驚くことに、信用金庫の兄ちゃんが岡っぴきよろしく十手を持って嗅ぎ回ることだって目論まれていたのだ。だからオアシスだって簡単には見つからない、ああ、このままでは危ない…。庵まであと10分というところで、串に刺したものを焼いているおじさんの姿が朦朧とした私の目に像を結ぶ。藁にもすがる心持ちでふらふらと吸い寄せられる。陽光が遮られ冷房が効いた狭い店内で少しずつ意識がはっきりする。いつしか順番が回ってきたようで、私はするすると注文していた。「レバ2本、つくね2本、鳥もも2本、手羽先は1本・・・」ここは清澄白河駅近く、高橋ほとりの「鳥末」。
「怒涛の3週間」はそのまま「怒涛の6週間」になっていた
鳥末は鶏肉屋さんであって、焼き鳥屋さんではない。精肉と加工した鶏を商いしている。狭い店の外にお客さんが並んでいるのを見かけることも頻繁だ。実は利用したことはない。店の中に「スペース」を見つけ、「危機」を打開するためにそこに駆け込んだのだ。状況判断は間違っていなかった。抜き差しならない「失点」は避けられたようだ。庵に帰って冷えた炭酸水を飲んで、落ち着いてからシャワーを浴び、ビール片手にお初の鳥末の焼き鳥を口にする。こりゃあいい。馴染みの焼き鳥屋「うきち」から何度もテイクアウトをしているが、それとも違う。両国国技館の名物である焼き鳥に通じるものがある。なんというか「冷めても美味しい」ことが念頭に置かれている。温めることなく食してみたが、それでこそ美味しいような気もする。これをつまみに夫婦は語らう。「こりゃ『週末でダバダ』だな」かろうじてそうと感じられる緊急事態宣言下の週末。散種荘に寄りつけなかった第二期工事中の3週間、つれあいは6月8日から始まったこの期間を嬉々として「怒涛の3週間」と呼んでいた。工事の完了を確かめ新たに庭を展望した滞在を含むその後の3週間も合わせて、実のところ私にとっては「怒涛の6週間」でもあった。そもそも何が「怒涛」なのか、話はここから始まる。
これから数年の「新しい生活様式」ができつつある
散種荘が完成して以来、東京で3週間を暮らし続けるというのはこれが2度目だ。彼の地での過ごし方が身についてくると、ここまで離れているのはつらい。しかし、ここを過ぎた夏の間は、運動もはばかられる東京を離れて、生活の中心を白馬に移す腹づもりでいる。するとなると、「夏に東京にいなくて済むようこの3週間で仕事の段取りをつけられるか」それがつれあいのテーマだった。その上で「仕事のリモート化」に「スピード感」をもってどうやって取り組むか、その決意が「怒涛の3週間」という言葉に滲む。一方、私はというと、久しぶりに仕事を始めた。朝起きて、午前中に洗濯・掃除の家事を済ませてジムか買い物に行き、午後からつれあいの会社の非常勤の仕事かアルバイトに出かける、ときたま残業もしつつ夜はサッカーヨーロッパ選手権をWOWOWで観戦しながら晩酌をする、白馬での5日間をはさみながらそういう6週間を送っていた。3度目の契約延長を求められたアルバイトは明日で終わりになるけれど、この間は私にとっても今後の生活パターンを模索する重要で「怒涛」な季節となった。それにしてもスポットのバイトというのはいい。探すのに苦労をするかもしれないが、まるで「俺たちの旅」のように、次は何をやろうかと新鮮な心持ちになれる。
江東区で聖火リレーが執り行われるその日に
来週、江東区で聖火リレーが執り行われるその日に、あちこちが通行止めとなり金網が張り巡らされ一般車両の首都高速料金が1000円増しになる「戒厳令下」で酷暑の東京を離れて白馬に高飛びする。まったくもってありがたいことだ。だからといって運が良かったのかというと、「それだけではなかろう」と少しばかりの異論を持つ。鳥末の焼き鳥を口に運びながら、この夜だって「あーだこーだ」喧々諤々と二人で妄想を広げている。そこに現れる「おぼろげな像」が「おぼつかない像」になるまではしつこく目論むことをやめない。すると「望むこと」が純化され、ひとつひとつ片づき、自ずと「予定」は立つ。それを繰り返してきたのだ。といっても、運があったのはそれはそれで間違いないんだけどもね、とまあ、そんな風に思ったりもする。執念深いのである。ああ、もうすぐ隠居の身。だから「怒涛」の季節はまたやってくる。