隠居たるもの、夏の盛りに涼をとる。かつては「暑中お見舞い申し上げます」と記された便りをいただくと、送ってくださった方の気遣いから滲み出る「涼やかさ」を感じてだろうか、一瞬とはいえ暑さを忘れうれしい心持ちになったものだ。それがどうだ、こうも暑熱にまとわりつかれると、「一服の清涼剤」に感応する余裕すらなくなり、どこか受け取り方もおざなりになったりする。これも「暑中見舞い」という習慣が廃れつつあるひとつの要因なのではと思う。ああ、涼しいところに身を置き心の底から手脚を伸ばしたいものだ。2021年7月26日月曜日、4連休も終わって人も少なくなったことだし、私たちは標高1829mから始まる栂池自然園に足を運ぶことにした。

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緑の中を駆け抜けてく真っ赤なフィット

買い物をする必要もあったし、前日の夕方からレンタカーを借りていた。今回はホンダの真っ赤なフィットだ。小さなフィットは緑濃い山中を駆け抜け、散種荘から北に10kmちょっと、標高839mの栂池高原駅を目指している。そこからゴンドラ(もちろん冬季はスキー・スノーボード客のための)に乗りこみ、長袖シャツを羽織りながら20分かけて一気に標高1582mの栂ノ森駅へ、そこから少しだけ歩いて栂大門駅でロープウェイに乗り換える。白馬乗鞍岳(2437m)、小蓮華山(2766m)を正面に見据えながら標高1829mの自然園駅までは5分だ。左手にある白馬岳(2932m)、杓子岳(2812m)は残念ながら雲がかかっていた。

栂池自然園は湿原なのである

栂池高原に位置する栂池自然園は、尾瀬や日光戦場ヶ原と同じく湿原である。全長5.5kmの遊歩道。手前半分は木道がぐるりと張り巡らされていて起伏もなく歩きやすい。気温は20℃と少しといったところだろうか、高原の冷涼な風が吹き渡る。とても爽やかだ。とはいえ、ここを縄張りにしている者たちからすれば今が夏の盛りには違いなく、木道の両脇に高山植物が咲き誇る。ところどころで好事家が三脚に一眼レフカメラをのせてじっくりと撮影をされている。私たちも真似てときおり接写を試みるのだが、どうも照れ臭くて長く足を止めることができず、「いやあ、ちょっと申し訳程度にでして…」という素振りでそそくさと先に進む。誰も気になどしていないことは重々承知なのだが、こればかりは性分だからどうにも仕方ない。

ヒオウギアヤメ
クルマユリ
ワタスゲ
キヌガサソウ
ニッコウキスゲ
チングルマ

ハイキングのお昼は必ずやおにぎり

楠川というせせらぎにぶつかって、自然園の手前半分は終わる。ちょうど昼時でもあったから、河原の石に腰をおろし持参したおにぎりを食す。ハイキングの食事はおにぎりと相場が決まっている。川の上を渡る風は冷涼の度がさらに増している。言うまでもなくとても美味しい。人心地ついたところで、さあ奥半分に分け入ろう。ところが、手前半分が散歩だったとすれば、奥半分は立派に登山。途中に「その靴で大丈夫か考えなさい」とした立看板すらある。最奥部の展望湿地は標高2010m、手前半分がずっとなだらかだった分、140メートルほどの標高差を奥半分が一手に引き受ける。木道の先に荒々しい山道が突然に顔を現す。これは遊歩道ではない…。知らなかったとはいえ相応の装備で出かけていて本当に良かった。

そして白馬大雪渓を望む

ちょっとした散歩のつもりでいたのだ。なのにこれはキツい。這々(ほうほう)の体ひとつ手前。マスクをし続ける余裕などなくなり、外して首にぶら下げる。人が溜まっているところやディスタンスを保てずにすれ違う時のみ装着し直す。気温は低いが汗が吹き出す。途中のモウセン池で一息つくも、大阪から来たと思しきおばさんたちが元気すぎるから(すでにワクチン接種を2回終えているのかしら)用心してすぐに立ち上がる。そこに何が待っているのかは知らないが、ここまで来たからには最奥部 展望湿地を諦めるわけにはいくまい。

やはり私たち夫婦は、日頃の行いがそこそこいいのかもしれない。やっとの思いで展望湿地にたどり着くと、日本三大雪渓のひとつ、白馬大雪渓が顔を出しているではないか。さっきまで白馬(しろうま)岳と杓子(しゃくし)岳は雲に覆われていたのだ。ああ、ここまでやって来た甲斐があったというものだ。私たちは、汗が引くまでうっとりと眺めていた。

急な下り坂はふくらはぎにこたえる

当然に帰り道は急な下り坂になるわけで、ふくらはぎが笑い始める。スピードが落ちたおかげで昆虫たちが目にとまる。もう少しで自然園の出口というところに「風穴」という岩場があった。涼しそうなのでここで最後のひと休みをする。しかし、なにをもって「風穴」と呼ぶのだろう。岩が連なっているその穴からとっても冷たい風が吹いてくる。穴を覗き込んでみると、なるほど、雪が残っていた。冬の間は高原全体すっぽりと雪に閉ざされ、夏になってもこの穴には陽が届かないのだろう。さしずめ冷蔵庫に顔を突っ込んでいるようなものだ。電気代や排出されるCO2のことを気にせずに済むだけで涼しく感じられる。

ヤマキマダラヒカゲ
カオジロトンボ

下界の気温は10℃ほど高かった

午後4時レンタカーを返却、最後の力を振りしぼって1本道の登り坂である家路についた。交差点に差しかかると、左から白い軽自動車がやってくる。先方がスピードを緩めたので警戒しながらゆっくり直進する。軽自動車は私たちと同じ方向に曲がり、運転席の窓をスルスルと下ろす。(ひとりで車に乗っているから当然にマスクをつけていない)色男がニヤッと笑いながら手を振って私たちを追い越していった。池田建設社長だった。この人は目尻を少し下げてニヤリとした顔がとてつもなくハンサムだ。車は現場である少し先のお宅に駐まっていた。そういえば24日に散種荘を訪れた社長は、「いやあ、白馬の人間は参っちゃってて…。こんな暑かったこと今までになかったし、子供の頃は『窓を開けたまま寝たら風邪ひくぞ』なんて怒られたもんだけど、どうにも辛抱ならない夜もあってね。私たちはこれまで寝苦しくて夜に窓を開けるなんて経験したことがないんだから…」としきりにぼやいていた。心地よく疲れたその日の夜、私たちは早々にぐっすりと眠った。一夜明け、雨が降る今日の白馬は肌寒い。ああ、もうすぐ隠居の身。あとふた月もすれば栂池自然園の紅葉が始まる。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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