隠居たるもの、諸々見計らって行楽に出向く。2021年5月23日、雨の心配がない晴天の日曜日、私たちは半日の行楽に出向くことにした。本来なら昨年に開催されるはずであった北アルプス国際芸術祭であるが、新型コロナの煽りを受けて本年に延期されている。会期はいじらしくも東京オリンピックを外した8月21日から10月10日。なのに「どうして5月23日?」というと、すでにできあがっている12の作品でプレイベントが催されたからだ。北アルプス国際芸術祭の会場は白馬村の隣の大町市全域、私たちはレンタカーを借りた。そして、せっかくの機会なんだからと少しだけ足を伸ばし、山奥の秘湯でひとっ風呂浴びた。
国道148号を南下して目指すは旧大町北高等学校
国道148号線を23km、ひたすら南下する。青木湖を右手に通り過ぎ、向こうに木崎湖が見えてくる。「行楽」らしい「行楽」なんてどれくらいぶりだろう。しかも萌え立つような新緑の季節である。「爽っやっかな日曜、ふりっそっそぐ太陽、ヘイヘイヘイ、イッツァビューティフォーデイ♬」永遠のサニーサンデーミュージック「ビューティフル・サンデー」でも歌いたい心持ちだ。前方のサイクリストが緩い下り坂を気持ち良さそうに進む。会期中ずうっと有効のパスポートはすでにインターネット(3,000円のところを2,000円に割引)で購入してある。プレイベントなので各所に本格的なしつらえはまだ作られていないが、この日4作品が公開されている旧大町北高等学校で、購入済みのスマホ画面を見せれば実券に交換してもらえることになっている。こうした地方の芸術祭では廃校を主要会場にしていることが多い。
主催者にはプレイベントを催す都合があった
調べ物をしようと「北アルプス国際芸術祭」とインターネットに打ち込んでみる。すると「北アルプス国際芸術祭 反対」という検索の組み合わせが登場していささか驚く。実のところ目ぼしい記事があるわけではないのだが、まるっきり気持ちがわからないわけでもない。しかし、経験からしてこの規模の芸術祭に「危険」なほどの人は集まらない。海外からのお客さんが来られないならなおさらのことだ。実際、プレイベントはゆったりしたもんで、会場ごとに設けられた制限人数に達して待たされるということも一切なかった。
旧大町北高等学校でパスポートを実券に交換する際、額に計器をあてられ検温された。このご時世、よくある光景に違いない。私の体温は36.5度だった。ただここからが違う。「大丈夫です。それではこのリストバンドを手首に巻いてください」緑のリストバンドには「検温済」と白抜きされていた。「他会場に入場する際はこれを掲げてくださいね」これは熱がないことを証し、何度も検温する、そしてされる煩わしさを解消するツールなのだ。「こりゃ知恵をしぼったね」と感心する。人出も含め、主催者にはこうしたシュミレーションをしたいという都合があったのだろう。巨大イベント東京オリンピックの「安心・安全」はいつまでたってもどうにも眉唾だが、のどかな北アルプス国際芸術祭はいたって「安心・安全」だ。その証拠にツバメが飛び交っている。
鷹狩山の「目」
力のないレンタカーのエンジンが苦しそうにうなる。信濃大町駅周辺から離れ、鷹狩山の厳しい傾斜を登っている。標高1,164mの山頂にある現代アートチーム「目」の作品を目指している。山頂手前の駐車場にレンタカーを止め、案内の幟(のぼり)を頼りに自力で石段を上がる。軽く息を切らしたところで目的地に到達し、なんだか愉快そうにしている係の人にパスポートとリストバンドを示す。以前からそこにあった建物に石膏をかぶせ、迷路状の空洞に固めたそれ自体が作品で、靴を脱いで入るよう促される。「こっちかな?」と手探りで進むと、その先にポンと広間があった。突然に視界が開け私たちは度肝を抜かれる。
真っ白な石膏に固められた迷路は眼球で、残された窓が黒目、そこを通して大町市街を見下ろし、その向こうに北アルプスの絶景を望む。これは凄い。ここ山頂に来るまでずうっと上ばかりを見上げ眼下に視線を向ける余裕がない。そんな時、私たちは足下に広がるこの素晴らしい景色に思いが至らない。開かれた窓を前にして初めて気づく。やられた。この立地でなければ成立しないすごぶるスケールの大きい作品だ。今日はこれだけで元が取れた。季節が変わった本会期にまた来ようと思う。
「葛温泉 高瀬館」は中部山岳国立公園の中にある
大町市街から白馬に戻る道すがら、車で10分ほどのところに「大町温泉郷」がある。「せっかくなんだからひとっ風呂浴びようじゃないの」となるのは人情だろう。そうなるとインターネットというのは業深いもので、「せっかくのせっかくなんだからいちばん素敵なところを探してみようじゃないの」と際限がない。すると、大町温泉郷からさらに15分ほど山を分け、中部山岳国立公園に入った高瀬渓谷に、700円で日帰り入浴もさせてくれる「葛温泉 高瀬館」という旅館があった。初夏の絶好の温泉日和、大町温泉郷は次回に譲り、もちろん私たちは山に転がり込んでみる。
葛温泉 高瀬館は秘湯だった。旅館というのに人の気配を感じないその風情がいい。硫黄臭がほのかに香る。ほどよく鄙びた内風呂の外に出て、この日2度目の度肝を抜かれる。もはや「池」というほどに豪快な源泉掛け流しの露天風呂だ。渓谷の水の音を耳に、ゆっくりと山の涼風を味わった。(先客がお二方いらしてこっそり写真が撮れなかったのが残念。葛温泉 高瀬館のHPアドレスを添付しておくのでそちらで想像を膨らませてはいかがか。)
最後の仕上げは5月のビール
レンタカーの返却時間、午後5時には間に合わなかった。ニコニコレンタカーのおじさんがニコニコと許してくれたことは前段「萌える新緑がのしかかる in 白馬は初夏なのである」でご紹介した通りだ。私たちはその足で馴染みのsnow peak LAND STATION HAKUBA のレストラン「雪峰」に向かう。風呂上がりだもの、もちろんビールを飲む。ここ白馬には「緊急事態宣言」も「まんえん防止等重点措置」も「発出」されていない。3回目の「緊急事態宣言」が「発出」されてからというもの、私たち夫婦は東京で外食をしていない。ゆったりした広さが確保されたこちらで、夕景を眺めながら静かに味わう5月のビールが格別だ。ささやかだけれど代え難い喜びである。ああ、もうすぐ隠居の身。東京オリンピックなんかどうでもいいや。