隠居たるもの、爪を切りつつポツリつぶやく。2024年8月18日日曜日午前10時24分、前日に洗濯していた衣類を畳んだり、快晴と予報されたこの日を選んで洗ったシーツを干したり、はたまた掃除機をかけたり、朝にこなすべきひと通りの家事を終えて「そうだ、そろそろ」と私は手の爪を切り始めた。ともに開け放っている窓から玄関に向かい、涼やかな風が双方の網戸を抜けてさあっと吹き抜ける。ギーーーと鳴くエゾセミに交ざって小鳥たちが樹上で声をかけ合う。そこに、パチリ、パチリ、爪切りがたてる音が加わる。各々の手元の仕事に目を落としつつ、私たち夫婦は「ああ、静かだなぁ」とつぶやき合う。最大9連休とされた大型連休、どうやら最終日を待たずにその喧騒は過ぎ去ったようだ。

台風7号から逃げるように友だちがやってくる

深川の友だちから「あずさは無事に定刻通り新宿を出発しました」と連絡があったのは16日の午前8時01分のことだった。彼はこの日から一泊で散種荘に遊びに来ることになっていた。台風7号の進路にヤキモキしていたが(東海道新幹線 東京ー名古屋間は運休が発表されていたし)、東の海上に少しそれてくれたおかげで、北西方向の山に向かう特急電車までには影響が及ばなかった。すでに肩から荷を下ろしている初老の夫婦と違い、四十そこそこの彼は仕事においても家庭においても現在進行形で重大な責任を抱えていて、休みらしい休みもなかなか取れない。しかし今年のお盆休みは最大9連休となる大型連休、どんづまりに確保した時間で、彼はただただ身体を伸ばそうと私たちを訪ねたのである。

ゴマダラカミキリムシのお出迎え

定刻通り午前11時42分に白馬駅に到着した彼を出迎え、レンタカーで散種荘に連れ帰り、近くのカフェに注文してあったハンバーガーを昼食にピックアップして、庭を眺めながら頬張っていたときのこと。頭を上にして腹と6本の足をダラリと垂れ下げ、背中の硬い「ふた」を開き切り、その下にしまっていた羽根を広げてひっきりなしにバタバタと動かし、「旦那ぁ〜!」とばかり迷いもなく真正面から一直線にウッドデッキに飛来してくる者がいる。甲虫類特有のファンキーな飛び方、とても大きなゴマダラカミキリムシだった。あちらこちらで「開発」が進み雑木林がつぶされたせいか、それとも気候変動が原因か、今年の夏はどうも「昆虫の出」がひと月くらい遅い。「フェロモンみたいなもんが出てるのかどうかあずかり知らないが、どういうわけか俺は動物や昆虫に好かれるのさ」と、この夏初めてようやく挨拶に訪れたゴマダラカミキリムシを手にのせてみせる。かつては少年だった四十男が感嘆したのはいうまでもない。

大型連休仕様のおもてなし

「せっかく白馬に来たんだ、信州らしく昼には蕎麦でもすすりたいところだろうが、ハンバーガーにしたのにはもちろんのことワケがある」と彼にことの顛末を弁明する。コロナ禍はもはや完全に過去のこと、8月10日から大型連休が始まってからというもの、白馬にも多くの人が押し寄せる。山に登る方々に加えて避暑を目的とする観光客および子どもを連れた帰省客の面々だ。しかしこの村に現存する飲食店ではそれだけのお客さんをさばききれない。考えもなく「それじゃあ蕎麦でも食いに行こうか」などと午前11時42分に蕎麦屋さんに足を運ぼうものなら優に一時間は順番を待つ。「回転」が勝負のランチタイムであるから当然のこと予約も取らせてはくれない。ゆっくりしたいだろう彼に着いた早々そんな「洗礼」を浴びせてはいけない。それに近所のカフェのこのハンバーガー、実は誰もが「お⁈」となるほどに美味しい。そして、やはり「お⁈」となった彼とともに、午後はゆったり散歩に出て、スニーカーを脱いで平川に足をつからせたりしたのであった。

凶暴なほどにうるさい男女7人夏物語

夜はウッドデッキで炭火を囲む。来客は「ここまで長い時間にわたって騒ぎ続けられるなんてすごいですね」としきりに感心する。近くに最大12人を収容できるオーストラリア人経営の貸しコテージがあって、料金が比較的リーズナブルなのか、夏になると決まって数組の日本の若者が大人数2泊3日で利用する。困ったことに2階に広く開放的なベランダがあるため、そこで宴会なぞ始められようものなら騒々しさが撒き散らされていささかならず迷惑をこうむる。その度に「あんな時分には自身だって似たようなものだったろうし、若いもんの『青春』にケチをつけるのもなんだし」と苦虫を噛みつぶしてやり過ごす。しかし、水戸ナンバーの自動車2台で15日からやってきた今回の「男女7人夏物語」、レベルが違っていた。その騒々しさたるや凶暴ですらあった。

おそらく同一人物と思うのだが、ある者がなにやら叫ぶ、すると残りの者たちが付和雷同して大声で合唱を始める、歌い終えると「ウォー!」と歓声が上がる。これを夕方から日が変わるまで、それも二晩ともに延々と続ける。もしかして水戸の地下アイドルとファンたちの合宿だったか、笑っちゃうやら呆れるやら…。ベランダでなくずっと屋内でやってくれたからまだ助かったのだが、それならそれで屋内から発せられた蛮声がここまで聴こえてくるということにこれまた驚く。初老の私にはまったくもって理解不能、だから20歳近く年下の友だちが遊びに来てくれていて助かった。もともと酒と音楽を介して友だちになった私たちは、周囲の音などいっさい耳に入らない「ご近所さん」を気にすることもなく、レコードを取っ替え引っ替え夜遅くまで酒を酌み交わし語らった。夫婦だけで静かに過ごしていたら、イライラがつのってうまく寝つけなかったに違いない。

友とともに大型連休は去りゆき、山にひっそり静けさが戻る

明けて17日、「男女7人夏物語」は午前中早くに、かえすがえすも何がそうさせるのかさっぱりわからないが、ひとしきり「ワーワー」とただ歓声をあげて水戸に帰っていった。私たちも10時を過ぎてレンタカーに乗り込む。まず馴染みの蕎麦屋に出向き、11時開店に備えて置いてある「お客様順番リスト」の最上部に名前と人数を書き込む。いったん用足しのため店を後にし、開店までに戻ってきて一番客として蕎麦をすする。その日一番に揚げられた天ぷらの格別の美味しさを初めて知る。早い昼食を終えたのは11時22分、案の定、すでに店は満席で外には数組のお客さんが列をなしていた。八方尾根に登ってみたいという来客のリクエストに応えてゴンドラとリフトを乗り継ぐ。すっぽり雲の中の標高1,860m地点で、つれあいにレコードジャケットのような写真を撮ってもらう。そして午後3時16分、すっかり涼んでゆっくりした友だちは、満席のあずさ46号で東京に帰っていった。

最終日である18日はすでに帰っている自宅でゆっくり英気を養う人が多いのか、「大型連休」は実質的に17日のうちに終わっていたようだ。さて、静けさを取り戻した白馬で、つれあいは61歳の誕生日を迎える。「そうそう、暖簾がかかるのを待っていたとき、蕎麦屋の庭に赤とんぼが飛んできて目の前にとまったんだよな」なぜかそんなことを思い浮かべる。ちいさい秋を見つけたのだろうか。ああ、もうすぐ隠居の身。あの赤さったらなかった。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です