隠居たるもの、気配を感じてレンズを向ける。待ち合わせ場所は羽田午前11時45分発熊本行きJAL629便の搭乗口だ。地下鉄に乗った10時ごろに「チェックインを済ませた」と姪から連絡が入る。「こりゃまたずいぶんと早い空港入りじゃなかろうか」と一瞬は訝しみつつも、「ははあ、メロンの野郎を空港でたっぷり遊ぶだけ遊ばせ疲れ果てさせて、座るやいなや機内ではグッスリ眠らせよう、そういう魂胆だな?」と思い当たり、その周到な算段に感心したのであった。私たち夫婦が搭乗口に着いたのは10時52分、キョロキョロしているメロン坊やはすぐに見つかった。ヒヒヒと笑っておもちゃの緑のカメラを私に向けシャッターを切る。2022年11月12日土曜日、私たちは連れだって最高気温27℃の熊本に旅立った。
男子3歳にして名誉の負傷
「さあみんなで銭湯に出向こうじゃないか」という矢先、ゴンと2階で鈍い音がした。少し間をおいて「びえぇぇ!」と泣き叫ぶ声が響きわたる。メロン坊やが、中2階から2階に上がるため最後にしつらえられた3段の階段を踏み外し、上段の角におでこをぶつけ華々しくタンコブをこしらえたのだ。曽祖父母が熊本の老舗 鶴屋百貨店で用意してくれたサイレンが鳴る消防車のおもちゃがいたくお気に召した彼は、本家に挨拶に行くときもそれを小脇にはさみテンションが上がっていた。1年と1ヶ月前の熊本初上陸時と違い、今回はみんなそろってつれあいの実家に宿泊する。そんなこんなで興奮はマックス、飛行機移動で睡眠もバッチリ、とにかく彼ははしゃいでいたのだ。
曽祖母が血相を変えて氷を用意する。膨れたタンコブが少しずつ小さくなる。それにつれてこぼれる涙の粒も小さくなる。引っ掻いたような一筋の傷が、鈴カステラのごとき前髪のラインと平行にいくらか残るが、父親が「大好きなフランケンシュタインみたいでカッコいいんじゃない?」とくすぐると、泣きやんだ彼はまんざらでもなさそうだ。結局のところ大ごとにならなかったから言えることだけれども、調子に乗って痛い目にあってそのうちに泣きやんでちょっとだけ利口になる、子どもってえのはこうじゃないといけない。3歳と2ヶ月、それにしても頼もしくなったものだ。
たかの湯は大人400円、乳幼児80円
ひ孫を曽祖父母に会わせようと父親の実家である熊本にやってくる姪夫婦、今どきめずらしく大変に殊勝な心がけである。だからといって自分たちだけだとお互いに気を使いすぎてギクシャクする場面もどこかに出来(しゅったい)しよう。ゆえに「緩衝材の役を引き受けてくれまいか」という意向をひそませてお声がかかるわけだが、どちらにしろ私たちだって機を見計らって帰省をせねばならぬ身、喜び勇んでその任を引き受ける。とはいえ、これだけの大人が標準的な民家の風呂にかわりばんこに入るとなると、団欒に支障をきたす可能性も否めない。また早期の定年退職以降、私は酒を飲む前に入浴を済ますことを習慣としているし、どちらかというと長風呂を好む。ということで実家の近所を調べ上げ、ご両親も行ったことのない地場の鄙びた銭湯にみんなして出かけよう、そう目論んだのである。すっかり機嫌を取り戻したメロン坊やを真ん中にして、日が落ち暗くなった道筋を彼の指示に従いみなで手をつないで「たかの湯」に足を運ぶ。脱衣所に響く聴いたこともない演歌が旅情を誘う。メロン坊やのシャツの胸ポケットには、あのおもちゃの緑のカメラがすっぽりと入っていた。
ヤクルトの若き三冠王 村上宗隆
「おばあさんがそこのスーパーに買い物に来るわよ」そこのスーパーとはつれあいの実家からほど近いあのスーパーのことだ。2016年4月の熊本地震の際、この店は無残にも崩落し、商店街のアーケードをざっくり壊してもたれかかった。被害の大きさを物語るレポートとして、その画像が現地から頻繁にニュースに登場した。「私たちの周りにはヤクルトスワローズのファンがけっこういまして、史上最年少三冠王、村上宗隆の実家がこの辺だと聞きました。近いんですか?」との質問に対し、お義母さんは彼のおばあさんと同じスーパーを使っていることを示して答えとし、「あなたたちが今晩に飲むワインも、そこで選んで買ってきなさい」と、近場で日がな一日ブラブラしようかという私たちに買物を命じる。メロン坊やご一行は実家の自動車を借りて朝から天草までの日帰りドライブに出かけている。イルカウォッチングのクルーズも予約してあるという。
ロアッソ熊本の熱狂
大学の後輩にプロのサッカー監督を生業としている者がいる。なんの因果か熊本滞在中のこの日11月13日、彼が率いる京都サンガFCとロアッソ熊本がJ1参入プレーオフの決勝を戦った。やはり気になるものだから生粋の熊本県人とともにテレビ観戦する羽目になったわけだが、なんの因果かこれがまた激しい試合となり(京都が簡単にゲームを進めてくれれば「まあ仕方なかたいね」と和やかな雰囲気に包まれるものを)、熱狂の果て1−1の引き分けに終わる。自ずと京都を応援する私はJ1残留という結果に胸をなでおろすのだが、悲願のJ1参入まであと一歩だったロアッソ熊本に当然のこと肩入れしたお義父さんとお義母さんの落胆を見るにつけ、心持ちは「針のむしろ」であった。そうこうしているうちにメロン坊やご一行から「海には出たんだけど、イルカが一頭も現れなかった。残念だから水族館を回ってイルカと触れ合ってから午後6時ころに帰る」と連絡が入る。私たちは少し遠いところにできた「神水(くわみず)公衆浴場」という新しい銭湯に散歩がてら出かけ、それまでに市電に乗って帰ってくることにした。
メロン坊やが2022年11月の熊本を激写する
帰宅後にロアッソ熊本を越える熱狂を巻き起こしたメロン坊や、別れを惜しむ曽祖父母に手をふり、11月14日月曜の朝に市電に乗って姪夫婦とともに街中に向かう。緑色をしたおもちゃとはいえ「カメラ」という道具を手にし、あらためて世界を切り取る「激写」がとまらない。熊本城の天守は復活しているけれど、近くに寄ってみると石垣の再建はまだまだ道半ばだ。
ロアッソ熊本の激闘の横で投票率28.6%と著しく低調に終わった熊本市長選、対立候補もおらず各党派相乗りで圧勝(これほどの低投票率で「圧勝」という言葉を使うこと自体に違和感をおぼえるが)した大西 一史市長よりも、名前すら名乗らず大きく「灰色」とだけポスターに記し惨敗した古木 浩一候補の存在感こそが「真実に近いのでは」と思わせる。ともに散策したのち、下通の黒亭というラーメン屋で昼食をとり、手を振って私たちもそれぞれの方向に別れた。ご一行は東京に戻っていく。私たちは反対方向の市電に乗って、両親ともう一泊ともにする。
一頭も現れなかった責任を取ってか、天草で1年間有効の「イルカウォッチング無料乗船券」をもらったのだそうだ。イルカが現れる確率が高いのは、子どもを産む春から夏にかけてなのだという。「今度は夏に来たい」と姪はちゃっかりと打診する。熊本の夏は灼熱だけれども、いたしかたない、それを念頭に算段を立ててみようか。ああ、もうすぐ隠居の身。メロンよ、その時までに写真の腕を上げておけよ。