隠居たるもの、最後の荷物を下ろして一息をつく。2024年12月14日のおそらく午後2時45分ごろ、つれあいが指差す場所に冷蔵庫を下ろし、11月後半から着手した引越しがようやく終わった。引越しといっても、主にはつれあいが一人で働く仕事場の移転であるから、家財道具一式を運ぶではなし、そこで即日に生活を始めなければならない切迫感もない。また近所から近所で距離にしたって1kmも離れてはいない。ゆえに「業者に依頼するとかえって面倒」と考え、レンタカーを借り自らの手でコツコツと進めてきた。そして最終日と目論んだこの日、近所に住むサッカー部の後輩が助っ人に加わり大きな家具をまとめて搬入、作業はようやくにして見事に完了した。新しい事務所は銭湯の上階、大家さんはこの銭湯のおかみさんだ。
仕事場の変遷と引越し歴
学校を卒業して以来ずっとあちこち「アパレル業界」に携わってきたつれあいであるが、この20年くらいは生産を担当するフリーランスとして働いている。途中に法人化もしているけれど、いわゆる「ひとりなり法人」というやつで、一人で仕事してきたことに変わりはない。当然のこと仕事をするにはスペースが必要で、当初は私たち二人が暮らす深川の集合住宅の一室をそれにあてがっていたのだが、その後この部屋は母に先立たれて独り身となった私の父親の居室へと変わる。この同居に際し玉突きとなって仕事場を探すことになったつれあいは、近くの墨田区は菊川駅裏手に適当な賃貸物件を見つけた。継続的に家賃を負担する不安を新たに抱えはしたが、その頃を境になぜか運よく依頼が増えて幸いなこと今日に至る。
すでに父も逝って菊川駅裏手の部屋が二度目の契約更新を迎えるころ、茶道を嗜むつれあいは「自前の茶室が欲しい」という思いを強くする。しかし茶室なぞ賃貸では作れない。結局のところ「家賃を払うのもローンを払うのもいっしょ」と物件を探し始めたが契約更新までには見つからず、しかし得てしてそんなもので、ほどなくしかも更新したばかりの賃貸物件から歩いて1分のところに「これぞ」というマンション一階の物件が市場に現れた。マンションだとしても一階ならば炉を切れる。私たちはなんとかローンを組んで、こじんまりとした36平米の部屋を手に入れリフォームし、「鳥芽囁(ちょうがしょう)」と称し愛でた。つれあいはここのアトリエで仕事をし、茶室に友だちを招いて茶道のお稽古をした。
とはいえ万物は流転する。この間に私は勤めを辞したし、つれあいだって勤め人の世界でいうところの「定年退職・契約延長」の年齢を超えた。「自営だから関係ない」と強がったところで、コアな購買層からすればぐっと年長であるアパレル事業者にこれまでと同じように仕事が回ってくる保証などどこにもない。また、オンラインが進んだおかげで仕事場に縛られることも少なくなり大胆に白馬と行き来できるようになったがゆえ鳥芽囁に足を運ぶ日数も少なくなった。そしてつれあいによると、まさに猫の額とはいえ「夏の日に庭の手入れとかもうできないよ、この歳には東京の暑さは危なくてさ…」。もったいないことに、このままだと私たちはこの部屋を持て余すに違いない。幸い東京の不動産価格は高止まりしたままだ。コロナ対応のものを含めて借りているお金を還暦を過ぎたここいらへんでさっぱり返済してフリーハンドにもなっておきたい。だからこの際、思いきって売却することにした。
入浴料は半額
鳥芽囁で過ごしたのは8年と半年、ここで生活をしていたわけではないから年数ほどに傷んではおらず至って綺麗なものだ。いささか変則的な間取りとはいえ、反対にだからこそ「こんな物件を探していた!」という奇特な人だっているかもしれない、意に沿わない物件を購入してリフォーム費用が嵩むことを考えればかえって安上がりな場合だってあるだろう、今年の7月後半、私たちはちょっと強気の値付けをして市場に出してみた。あっという間に、値引き交渉もなく「ほぼこのまま使いたいからぜひ私たちに売ってください」という買い手が現れた。どういう目的で欲しているのか聞いてみると「あなたたちこそがこの部屋を使うべきだ」と思える20歳下くらいの夫婦、売買契約を交わしたのは8月末のことだった。
「あ、あんたたちね、こんど上を借りてくれたの。よろしくね。はい、2人で500円!」9月に引越し先をあらためて探し始めるなり、早々にここと決め11月から契約した部屋は江東区は住吉の銭湯の上。初めてまとめて荷物を運び込んだ11月後半のある日、店子は入浴料半額と聞いていたから早速に銭湯の暖簾をくぐってみた。東京の銭湯入浴料は今現在大人一人550円であるから半額ならば275円のはずである。細かくてキリが悪いしどうするのだろうとモヤモヤしていたが、番台に座る大家さんであるおかみさんはキリの良いところで250円でいいという。なんとも気風がいい。さすがチャキチャキの下町育ち。お風呂屋さんが経営する賃貸物件だから、この建物にはどの部屋にも風呂がない。だから広さの割に家賃がとんでもなく安い。そもそも私たちは仕事場に浴室を必要としていない。しかもさっぱりと温まりたかったら店子特権で半額でいいというのだ、この部屋を借りない理由はどこにも見当たらなかった。銭湯を出るなり見上げるスカイツリーってのもなんとも乙だ。
かいだん健康法
引越しは合計で4日に及んだ。引越し業者を介さないからまずはAmazonで10枚の段ボールセットを2,451円で購入、それに箱詰めして近所のエネオスのニコニコレンタカーでホンダのフィットを6時間2,860円で借りて4往復くらいしてもろもろを運び、その場で空けてまた段ボールを持ち帰り、それに箱詰めして…、それを繰り返すこと3日。大体それぞれ3時間もすれば終わってしまったけれど、かかったガソリン代はせいぜい240円から420円。最終日は身の丈190cmはあろうかという引越し最強の助っ人 メロン坊やの父親であるサッカー部の後輩に手伝ってもらって、大物の家具をやはりニコニコレンタカーで借りたトヨタハイエースで運ぶ。乗用車でないからさすがにレンタル料は高くて6時間で9,460円(車体が大きく不測の事態もあろうかと少し保険をグレードアップしてもいた)。そして燃費も悪く同じ4往復でもガソリン代は722円。どちらにしろ、かかった費用は合計で22,000円と少し、Do It Yourself、なかなかに頑張った。引越し先にエレベーターがなく、しかも下が銭湯で天井が高いもんだから荷物を抱えていちいち階段を上がるのには相当に難儀したが、大家さんが呼びかける通り、今後とも「かいだん健康法」に留意した生活を送りたい。
午後3時を回ると
午後3時を回ると外が少しだけ騒々しくなる。銭湯が開く3時半を前に、一番風呂にこだわる常連たちが集まり始めるのだ。そして窓のすぐ下に位置するボイラーもゴオッと響き出す。店が開くと浴場からカコーンという桶を返す音が聞こえてきて、ふわっとシャボンの匂いが漂う。4時を過ぎるとそれも一段落だ。ここで育った娘が先のパリオリンピックに出場していて、近所のみなさんこぞって応援していたっけ。こうしていろいろ肩の荷を下ろして、いい年を迎えられそうだ。用事があるのであれば、ちょっとそそっかしそうなおかみさんは番台にいるし。みなさん、最寄りにお近づきの際はぜひお立ち寄りください。そして一緒にどうぞ。ああ、もうすぐ隠居の身。「おかみさ〜ん、時間ですよぉ〜!」と。