隠居たるもの、夏の終わりに想い出を残す。年々と過酷さを増す暑い夏、ここ白馬でも陽が高い時間帯ともなれば気温は30℃を越える。標高の分だけ距離が近くなるからか、晴れるとなると陽光の威力はじりっと容赦ない。ひとつ間違えて熱中症にかかったりするのも馬鹿馬鹿しいから、おいそれと昼日中に屋外で遊ぼうという気分にもならない。またこの夏は立て続けに来客があったものだから、ガイド役となって彼らを案内するのは勝手知ったる馴染みの場、なんというか私たちは「冒険」をしていなかったのである。朝晩すっかり秋めいた白馬、このまま夏をやり過ごすのはどうにも惜しい。ということで、夏の終わりに、夏の想い出をつくるために、いざ身を置いたことのないところへ、足を運んでみたのである。
まずはレンタカーを借りる
まずはレンタカーを借りる日程を決める。天気予報を追うと安定して晴れそうなのは2024年8月5日と6日、その両日にいつものマーチが空いているか、馴染みのレンタカー屋さんにLINEを入れる。散種荘ができあがって早4年、ここの社長さんとはすっかり仲良しだ。誰もが自家用車を持つこの村で、ことあるごと定期的に借りるのは私たちくらいなものか。うちまで車を持って来てくれるし、「用事をすべて終えて帰りました」とLINEを入れれば引き取りにも来てくれる。貸し出し予定が当面入っていないとき、忙しくもあり面倒くさくもなるんだろうか、たまに取りに来ないことだってある。となるとうちの駐車スペースでしばらく保管する羽目になるのだが、そんなとき社長は「料金は取らないから使っていてもいいよ」という。レンタカー屋さんがここまで融通を利かせてくれるとは思いもしなかったが、それだけ私たちが地域にとけこんだ証のようでもあり、どことなく嬉しくもなる。ということで、現在の私の愛車 パールピンクのマーチが、8月5日午前8時50分に散種荘に届けられる。
小遠見山トレッキングの階段地獄
ゴンドラとリフトを乗り継いで標高1,670mまで登り、地蔵の頭から冬にさんざん滑った五竜スキー場を見下ろす。ここから上に伸びる登山道を辿れば標高2,814m 五竜岳に至る。しかし私たち夫婦が目指すのはそんな大それた頂ではない。「八方や栂池なんかはスキー場からさらに上へ登ったことがあるんだけれども、はたして五竜に適当なコースはないのだろうか?」と調べたところ、スキー場のHPで「小遠見山トレッキング」なるものが喧伝されている。小遠見山の頂は標高2,007mで眺望が素晴らしいという。しかもコースのほとんどが階段や木道で整備され「所要時間90分」と強調されている。すこぶる適当、「この夏の想い出は『小遠見山トレッキング』、これでいこう!」、私たち夫婦は調子づいた。
ところが、ゴンドラのチケットを買い求める段に窓口で渡されたコース案内図を手にして「あ…やられた」とにわかに暗雲が垂れこめる。赤字で強調されている「約90分」の横に、老眼には厳しい小さな文字で(片道)と注釈が記載されているではないか。少しでも多くの観光客を呼び込みたいスキー場は「簡単」なように見せかけるが、それにまんまとのせられ浮かれて見落としていた。また道具としてストックのひとつくらい準備しとけばいいものを、夏というのはどういうわけか気が大きくなるのだろう、まったく頭にも浮かばず持参していない。大ピンチだ。
「致し方なかろう」と丸腰の軽装備で登り始めたのも束の間、標高差350mのほとんどを階段で昇降するということが初老にとってどれだけつらいことか身に沁みる。ほうほうの体でなんとか到達した小遠見山の頂は雲に覆われていた。五竜岳から下山してきた若者たちが休憩しており、「ここから階段地獄だぁ」と笑い合っている。そう、延々と続く下りの階段は脚にこたえる。「所要時間90分」とたかを括っていたところ、休憩しいしい登って下りてたっぷり3時間、スキー場ふもとのレストランでなかなかに美味しい手打ちそばにようやくありつけたのは午後2時過ぎのこと。食い意地が張っているからか「不測の事態」に備えて握り飯だけは忘れず持参していたのだが、山の上で頬張ったこれが命綱となった。やれやれ、次はもっと上手くやれるだろう。
山から海へと、糸魚川ドライブ
明けて8月6日、私たちは白馬村から山深い小谷村を抜け新潟は糸魚川まで、山から海へと向かうドライブを初めて試みる。前日の小遠見山トレッキング階段地獄のダメージは両ふくらはぎに筋肉痛という形で明瞭に残っており、階段を下りる際に思わず口を真一文字に結んでしまう。しかし運転にまで影響は及ばずドライビングはいたって軽快、山深い小谷村からユネスコ世界ジオパークに認定されている糸魚川市にかけての国道148号線はさすがにスリリング、夏の想い出といえばやはり海なのである。
ヒスイ海岸からヒスイ峡へ
糸魚川市といえばヒスイだ。ここいらへんのヒスイは、約3億5千年前以前に海洋プレートの沈み込みによってでき、その後に蛇紋岩の上昇とともに地下の深所から地表付近まで持ち上げられたものなのだそうだ。ヒスイを含め石を採取することが許されているヒスイ海岸では、ヒスイハンターたちが一心不乱に波打ち際を探索しておられる。「せっかくだからヒスイを見つけてやろう」などという野心をからっきし持ち合わせていないつれあいも、散種荘を彩る鮮やかな石がないか物色する。私はというと湿った海風にさらされながら、大きな商船が水平線をゆっくり進むその小さい姿を眺めている。そもそも海は誰かのものではないのだから、日本海であろうと東海であろうと、呼びたいように呼べばいいと思う。
海から山に帰る途中に小滝川ヒスイ峡がある。国道148号線から脇に入りクネクネと続く山道を上る。すると突然に岩肌むき出し標高1,188mの明星山が姿を現す。その威容たるやまるでゴジラのごとし、今にも「ズンッ」と動き出しそうで夫婦そろって「ヒャーッ!」と感嘆の声を漏らす。ヒスイ同様、約3億5千年前に南の海の珊瑚が海底で石灰岩になり、それが海洋プレートに乗って運ばれてきて隆起して出来上がった山、と推定されるんだそうだ。
人間なんて
この明星山の直下の峡谷が小滝川ヒスイ峡。ヒスイの原石と思しきものが転がっているが、国立公園であるここでの採取は御法度だ。それらの一部がいつしかここから転がり川を下ってヒスイ海岸に打ち上げれる。そんな3億5千年に想いをいたすとき、ふと「人間なんてちっぽけだなぁ」と畏怖の念すら抱くのである。
栂池スキー場近くのホテルシェラリゾート白馬の日帰り温泉でドライブは締めくくりだ。日々に忙しく働いていた時分と違ってもはや高級リゾートにさっぱり魅力を感じないが、いささか高い日帰り入浴料金(通常1,500円、繁忙期2,000円)を支払って、こうして大きな風呂につかってたまに雰囲気だけ「つまみ食い」するのは悪くない。なにしろゆったり静かでいい。そしてふくらはぎをさすりながら「極楽、極楽、この風呂こそがこの夏の最大の発見だな」などと夫婦で興じ合う。やはり「人間なんてちっぽけ」なのである。こうして夏の想い出づくりが終わる。ああ、もうすぐ隠居の身。その日また社長は車を取りに来なかった。
*もちろん撮影は禁止されてますが、独り占めできた時間帯があったので…。ホテルシェラリゾート白馬の温泉:https://sierraresort.jp/hakuba/onsen/