隠居たるもの、数々の奇跡を想い出す。2020年11月25日、「神の子」ディエゴ・マラドーナがこの世を去った。享年60歳、10月30日が誕生日だった彼は還暦を迎えたばかりであった。今日の尺度からすると「若死」の範疇に入ろうに、少なくとも私の周りからは「まだ若いのに」という声が聞こえてこない。今回ばかりは、誰もが「凡人の物差しでは『神の子』は測れない」と考えているに違いない。それほどに強烈な天才だった。アルゼンチンから伝えられる葬儀の模様も彼の才能に劣らず強烈だ。しかし「なぜにそこまで?」それには歴史的背景がある、私はそう思う。その歴史的背景とは、1982年3月から6月までのフォークランド紛争に起因する。
1986年6月22日メキシコシティ アステカ・スタジアム、アルゼンチン対イングランド、サッカー史に残る2ゴール、1点目は「神の手」
マラドーナの訃報を伝えるニュースの中で、必ずといっていいほどこの2ゴールが紹介される。いわゆる「神の手」と「伝説の5人抜き」だ。ご存知であろうか、実はこの2ゴールは同じ試合、つまり1986年W杯メキシコ大会準々決勝 対イングランド戦で決められたものなのだ。私はすでに大学4年で、10万を超える観衆が見つめるこのテレビ中継を夜更かししてリアルタイムで見ていた。前半は拍子抜けするほどの穏やかさだったが、ハーフタイムを経て後半から唐突に激しくなる。その後半6分、アルゼンチンのプレッシャーを避けてイングランドのMFがGKピーター・シルトンに浮き球でバックパスを送った。抜け目なくそれを狙っていたマラドーナがボールに飛びつき、パンチングで逃れようとしたシルトンと競り合う。そして、ヘディングのフリしてちゃっかりボールを手でゴールに流し込む。もちろんイングランドは猛抗議するが、VRのない34年前のこと、主審は受けつけずにそのままゴールを認めた。ゲーム後の会見で、マラドーナは悪びれることなく自ら「神の手」と表現した。マラドーナの訃報に際し、当事者であるイングランドの武骨なGKピーター・シルトンは、「彼は確かに偉大な選手だったが、…スポーツマンとしては模範的かといったらそうではなかった」とコメントしている。
そして「伝説の5人抜き」
しかし、その3分後に正真正銘のスーパーゴールが生まれる。ハーフウェイラインから少しだけ自陣でボールを受けたマラドーナ、まずはターンだけで2人を振り切り、敵陣ゴールに向けてドリブルを始めた。イングランドDFは1人また1人、あれよあれよと抜かれていく。マラドーナは最後にGKピーター・シルトンもかわして、追いすがるDFに身体をあずけながらボールをゴールに転がす。漫画のような「60m5人抜き」。そしてこれこそが驚くべきことなのだが、この間マラドーナは左足しか使っていない。NHKアナウンサー山本浩氏の「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ!」の絶叫は忘れがたく、サッカー部同期と酒を飲んでW杯の話になるたびふざけて真似ていた。今やそれも「伝説の実況」なのだそうだ。訃報に際し取材された山本氏は「プレーそのものが他のコメントを許さないようなプレーヤーだった」と語っている。試合は終了間際にイングランドのガリー・リネカーがセンタリングを頭で押しこんで一矢報いたものの、2−1でアルゼンチンの勝利で終わる。「イングランド選手のショックは大きく、まるで有り金全部をすられた人間のようだった」とイタリア人記者はレポートした。アルゼンチンは爆発的な熱狂に沸きかえる。1982年フォークランド紛争の屈辱にずっと耐えてきたからだ。あの憎っくき大英帝国(つまりイングランド)をマラドーナがケチョンケチョンにしてくれたのだ。その勢いのままアルゼンチンは優勝する。
フォークランド紛争
赤い丸で囲まれているのが、1833年からイギリスが実効支配し植民し海外領土にして今に続くフォークランド諸島である。1982年3月、歴史的に一貫して返還請求に応じないイギリスに業を煮やし、当時のアルゼンチン軍事政権が上陸し一部を占領する。英国首相「鉄の女」マーガレット・サッチャーがそれを許すわけがない。そのまま軍事衝突に発展、兵器の物量にモノをいわせたイギリスに、アルゼンチンはたった3ヶ月でコテンパンにやっつけられた。どう考えても自分たちの目の前に浮かぶ島が「イギリスの領土」というのは理屈に合わない。なのに欧米諸国はそろってイギリスを支持した。アルゼンチンの人たちは、自分たちが「搾取」される「ラテンアメリカ」の一員であることを思い知らされた。その余波で軍事政権は崩壊したが、鬱憤が晴れることはない。そこにマラドーナである。まずは「神の手」だったことが重要なのだ。スポーツマンシップなんか知ったことか、こすっからく馬鹿にするがごとく、あの憎っくき大英帝国(つまりイングランド)の鼻を明かしてやった。続いてあのスーパーゴール。技量的にだって足元にすら及ばないと、あの憎っくき大英帝国(つまりイングランド)を打ちのめしてやった。しかもこれはW杯、晴れの舞台で赤っ恥をかかせてやったのだ。あの2ゴールがこの試合に出そろったことが肝なのである。それをマラドーナは1人でやってのけた。
スラム街のヒーロー
彼にはこんな逸話もある。子供のころ、サッカーの練習を終えるといつもゆっくりリフティングしながら帰宅する。手からは磁石を引きずっている。そこにくっついた鉄を集めて親御さんが売るのだそうだ。ブエノスアイレスにボカ・ジュニアーズという歴史のある強豪クラブチームがある。ボカは貧しきもののクラブチームで、ガラの悪いそのホームスタジアムを「世界で最も危険なスタジアム」という人もいる。マラドーナはそのチームでメジャーキャリアを出発させ、最後にはその愛するチームに戻ってキャリアを終えた。彼の葬儀で涙にくれているブエノスアイレスの方々が着用していたのはアルゼンチン代表かボカ・ジュニアーズのレプリカユニフォームだった。マラドーナはペレが大っ嫌いで「搾取する側のマスコットに成り下がった」と軽蔑していたようだ。「本当のプレッシャーは、ゴール前やピッチにはない。いつ貧困に陥るかという不安、そしてアルゼンチン代表としてのプレッシャー、それだけだ」彼の言葉である。ここにおいて「決定力」が不足することはない。
1979年ワールドユース日本大会
マラドーナを初めて見たのは1979年FIFAワールドユース日本大会、以前の国立競技場のスタンド席からだった。天才ぶりに魅了された私たちは、当時のサッカー興行の学生料金なんて安かったし当日券でも入れたから、アルゼンチンの試合を3試合も観に行った。9月7日の決勝戦が「アルゼンチン対ソ連」というのも今となっては感慨深い。チームを大会優勝に導いたマラドーナは当時18歳。私は15歳で中学3年。ずっと仰ぎ見ていたからすぐには気づかないんだけど、実は少ししか歳が違わない。サッカー部のあの先輩や義兄と同じ歳だ、いわば同年輩なのだ。確かにあんな無茶苦茶な天才はもう現れないだろう。ああ、もうすぐ隠居の身。あのマラドーナが逝ってしまった。