隠居たるもの、留守居の間にあれこれこなす。2025年9月20日土曜日、つれあいは14時55分発の飛行機で熊本に出向くことになっていた。しかしその直前、つまりは午前中から重大な席に夫婦そろって臨んでいた。23年を超えて苦楽を共にしてきたマンションの売買契約。なにぶん先方のあることである。初老の私たちと違って働き盛りの買主夫婦が平日にまとまった時間が取れるわけもなく、とはいってもそうと決まったからには不必要に先送りしたままではお互いに落ち着かず、なので慌ただしいのは承知でつれあいが羽田空港に出向く前に契約を交わすこととしたのである。ほんの2日前までとは打って変わってすっかり涼しく居心地のいい秋めいた陽気、心持ちも晴れやかだ。しかし私にはいささか昨晩の酒が残っていたのである。

暑さ寒さも彼岸まで
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、彼岸の入りとなる9月19日、前の日までしつこく続いていた酷暑がまるで嘘だったかのように、一夜にして空気そのものがガラッと入れ替わった。「ここまで涼しくなれば持って帰ってくるまでにいくぶん長く時間がかかろうとも鮮度に問題が生じることもあるまい。ならばちょいと安彦水産まで足を伸ばしてさ、美味しい刺身でも見繕ってみないかい?」とつれあいを誘う。7月の頭に青森から友だちが東京にやって来て久しぶりに酒を酌み交わした。そのときに美味しそうな純米吟醸 六根 Tiger’s eyeという日本酒をお土産にといただいたのだが、あまりにも暑い日々、普段に通うスーパーより遠いところに買い物に出かける気力が湧かない。となるとありきたりなものばかりで乙なつまみが食卓に並ばないから、もったいないしなかなか栓を開けようという心持ちにならない。そうした悪循環のまませっかくのお土産が2ヶ月半そのままになっていた。安彦水産には季節がら脂ののった秋刀魚があった。相も変わらず平目もタコブツも特撰。それらを肴に芳醇で美味しい日本酒、初老の夫婦はうっかり一晩で飲み干してしまったのだ。考えてみれば、お土産が放置されていたこの2ヶ月半こそが、そっくりそのままマンション売却のために動き出しそして契約にまで至った期間そのものなのだった。

三井のリハウス〜♫
「三井のリハウス」の営業マンにいざなわれ私たち夫婦がこの部屋に内覧にやってきたのは24年前の晩秋、確か勤労感謝の日の遅い午後だった。角度が低くなった陽光が運河越しに部屋の奥の壁まで差し込みゆらゆら揺れる、そんな美しい情景に一目惚れしすぐに購入を申し入れた。なんとかローンも下りて、翌年の4月に私たちのものとなった。ひと月かけてリフォームし、それとほぼ同時に都営地下鉄大江戸線が開通し、その後すぐに東京メトロ半蔵門線も延伸された。それから23年と少しをここで暮らす。そして売却を決意するに至り、青森の友だちと酒を酌み交わした翌日に何軒かの不動産屋にとうとう連絡を試みた。おっとり刀で真っ先に駆けつけてきたのは「三井のリハウス」だった。当然のこと他の不動産屋の話も聞いてはみたが、査定価格に大きな差があるでなし、結局のところ立場を変えてまた「三井のリハウス」に任すこととなった。「23年前に自社で媒介した物件」という記録もきちんと残していて、それに基づいた手数料「顧客割引」もあるというし、「とてもキレイかつカッコよくリフォームされていますから攻めの価格設定でいきましょう!」とおだててくれるし、なんというか顧客本位な熱意がわかりやすく伝わってきたのだ。

7月後半にインターネット上で公開し、世間一般がお盆休みシーズンを迎える直前8月8日にプロのカメラマンが撮影した室内写真を加えて売り出しページを充実させた。それを見たという内覧希望者がお盆休み明けから現れ始め、9月上旬までには合計で6組となった。24年前とはいえ自身だって内覧する側だったのだから、お客さんの内覧に立ち会い部屋の仕様を解説しながらその様子を見れば、先方がこの部屋を直に見て購入を真剣に考え始めたかどうかはわかる。また、真剣になったお客さんほど「なぜに今マンションを探しているか、そしてどういうマンションを探しているか」、そうしたことを生気に満ちた表情で饒舌に語り出す。それを介してお客さんがどんな人で、「購入したい」事情がどこにあるのか、部分的であれそうしたことも自ずと知れる。その果てに「おそらくあの2組のうちのどちらかじゃないかね」と予想していたら、あにはからんや、その2組からほぼ同時に購入申し込みを受けた。早々に買い手が見つかったのは喜ばしいが、予期せず「2組ほぼ同時」というのがなんとも困る。袖擦りあっていささか情も湧いている2組の家族のうち、そのどちらか一方を選ばなくてはならないのだ。

リサーチ活動と同級生の集い
結局のところ単純な「決断」だった。ほんの少しだけだが双方のオファーには差があった。だから私たちにとってよりよい条件を提示した方を機械的に選ぶだけだった。さてその家族との契約当日、横断歩道の先の「三井のリハウス」に向かうべく、私たちは交差点で信号が変わるのを待っていた。青に変わろうかという瞬間、すぐ横にいた電動機付き自転車の後部座席に座った子どもがサドルにまたがる父親に快活に話しかける。振り返り気味に優しく答える父親、よく見ると今回お断りした方の彼だった。なんとこのタイミングでまさかここで出くわすとは…。信号の色が変わるなり親子はすうっと清洲橋方面に走り去った。彼が私に気づいたかどうかはわからないが、いい部屋が見つかることを心より願ってやまない。

引き渡しを来年5月の私の誕生日当日に設定しつつ契約は滞りなく締結され、買主家族とにこやかに別れ、つれあいはそのまま大江戸線に乗って羽田空港に向かう。帰宅の道すがらに昼食を取り、一人で家に戻るなりインターネットで様々調べ物をする。暮らす家と環境に大きな異動がある以上、いくつか入用になるものが出来する。我が家においてそうした値の張るハード系の調査およびチョイスは私の担当、そこにつれあいの承認印をもらうというのが仕事の流れ。購入自体はまだ先だとしても、しくじらないよう調査はコツコツと始めておかなくてはいけない(「それそのものが道楽だものね」とはつれあいの弁)。夜に中高サッカー部同期が集うことになっていたのだが、その前にお茶の水のオーディオユニオンに立ち寄り現地調査まで実施。そして新橋の食事会会場へ。するとあてがわれた7階の小さな個室のふたつ奥、その大きな部屋でなんと母校の体操部同窓会が開催されていた。そこに乱入し同期の体操部2人を拉致してきてみんなで記念写真にも収まった。悲しいことに体操部は部員が少なくなり廃部になってしまったと聞く。それはそれとして同級生にばったり会うのはなんとも嬉しい。還暦を過ぎるとどういうわけかこうした偶然が増える。サッカー部の連中は積もる話もありったけあったから二次会に移行、もちろんおおむね楽しかったのだが私を当事者としてひょんなことから口論に発展してしまう場面もあって、皆と別れてから、車寅次郎ばりに「思い起こすだに恥ずかしきことの数々、 今はただ、後悔と反省の日々を 過ごしておりますれば」と念じつつ終電近くの半蔵門線で帰宅したのであった…。

新しいメガネ
明けて9月21日、新しくあつらえたメガネができあがったので取りにいく。残っていた酒が完全に抜けた夕方にジムに赴き、今月から再開しおそるおそる強度を上げてきた筋トレを、完全に夏の休養期間前レベルに戻す。映画「力道山」を観てさっさと寝る。22日の遅い午後につれあいが帰ってきて留守居が終わる。午後7時からは近所の「串カツ田中」でメロン坊や一家と待ち合わせ。リサーチ活動の一環として、「大きく変わることがあってな、大叔父と大叔母は車を買うことにしたんだ。君は何がいいと思う?」と試しに聞いてみると、メロン坊やは「アルファード」と即答した。なるほど、どこかであのでっかい車に乗る機会ががあったのだろう。しかしメロンよ、山の中だから四輪駆動じゃないと心許ないし、そもそもからして私たち夫婦はもう大きなものを必要とはしていないんだ。ああ、もうすぐ隠居の身。ことここに及んで優先すべきは小回りなのさ。
