隠居たるもの、想いを馳せつつ好物を味わう。2025年3月7日、深川の庵を出て、私は日本橋の歯科医院に向かっていた。通うこと今年になって三度目、予約は午前11時だ。2年続けて同じ奥歯の被せ物が冬の白馬滞在中にとれた。帰京に合わせて早々の予約を取ったところまでは同じだが、そこから先の治療は異なった。前回はとれた被せ物を接着し直しただけ、一度の通院で済んだ。今回は経年劣化した被せ物を新調することにしたため複数回にわたって通わなければならない。わざわざ日本橋の歯医者を行きつけとしているのには訳がある。まずは4年半前に辞した、20年近く勤めていた会社がこの医院から近かった。しかしそれだけではない、それ以上の理由がもうひとつ。ここを経営する歯医者が中学高校の同級生の弟なのだった。

満開のおかめ桜に想うこと
最寄駅の三越前に少し早く着いたから、そのまま地下をつたって馴染みのタロー書房を一巡する。「本当の戦争の話をしよう」という、35年前に発表された衝撃的な小説がある。作者ティム・オブライエンがベトナム戦争に兵士として従軍した経験をもとに記したもので、日本では村上春樹訳で文春文庫から刊行されている。その彼の20年ぶりという長編小説が平積みにされていた。タイトルは「虚言の国」、帯には「虚言症(ミソメイニア)が蔓延するアメリカで、稀代の嘘つき男が仕掛ける奇想天外なロードトリップ」、翻訳はもちろん村上春樹。書かずにはいられなかった心情がヒシヒシと伝わってくる。もちろんこちらとしても買い求めずにはいられなかった。

きれいに晴れてはいるけれど空気は冷たく、YUITOから地上に上がるなり背中が縮こまる。「三井のすずちゃん」に扮した広瀬すずのCMロケ地 福徳神社を抜けたあたりで南北に道が開けるのだが、ここで不意に丸まった身体が「はぁ〜」とばかりピンシャカ伸びた。おかめ桜が満開だった。そうだった、このあじさい通りはおかめ桜の並木道で、冬ごもりしていた虫が春の暖かさを感じて外に出てくるという啓蟄の頃合いがソメイヨシノより早く咲くこの桜の満開の季節。吹く風は冷たくとも、とたんに春に包まれる。今やメロン坊やの父となり母となった二人が、我が庵を訪ねてきて「結婚します」と私たちに告げたのは、やはり6年前のおかめ桜が満開となった日だった。

歯医者は同級生の弟
診察券に記された初診日を確認してみると「H30年11月9日」とあった。平成30年は西暦にすると2018年だから6年と4ヶ月くらい前ということになる。「え?弟、日本橋で歯医者やってるの?しかもほんとに会社の近くじゃないか、これまでにかかってたとこが廃業したんで困ってたんだ。絶対に行くよ」という兄貴とのやりとりを経て初めて足を運んだのだが、なるほど、あれもこれも6年前なのだ。若いころに親しくしていたわけでないものの、弟は私のことをかねてより知っていたようで、最初から肩肘張らずに診てくれた。前回に被せ物がとれた時だって、以前の歯医者がつけた被せ物を嫌な顔もせずつけ直してくれた。今回だってまたとれた被せ物を持参して駆け込んだのが2月18日、古いものを吟味し「もう新調した方がよかろう」と結論づけたものの採った型から新しいものができあがるのは通常からして一週間、しかし私が再び白馬に戻るのは23日、とはいえ被せ物のない弱々しい歯を長らく放置するのは危なっかしい、「うーん」と唸りながら弟歯医者は裏に回り、「最短でいつなら?」と歯科技工士に電話をかけ交渉し、「21日にはできるけど、来れます?」と治療ユニットに座る私にたたみかける。こうして滞りなく新しい被せ物を入れてもらった。そして今はかねてよりアドバイスされていた「あなたの場合、加齢による歯の磨耗などで噛み合わせに支障が出始めているので、矯正のためのマウスピースを作った方がいい。そうすれば無駄に力も入らず身体も楽になる」問題に、この際だから継続して取り組んでいるのである。次回にマウスピースができあがってくる予定だ。はてさて楽しみ、その効能については後日あらためてご報告しよう。

天ぷら天松の1階カウンターで天丼を食す
勤めていたときに行きつけていて、昼食どきならば立ち寄ってみたいと思っている店が今も日本橋には数軒ある。そのうちのひとつが日本橋のたもと、三越前駅出口すぐの天ぷら屋さん、創業1936年の天松だ。江戸前のからいタレ、私はここの天丼がとても好きだった。入り口で注文し料金を支払うとそのまま一階のカウンターに進むよう案内された。都心の一等地でそこそこ上等なタネを使っているのにいまだ1,485円、ほとほと頭が下がる。ビジネスマンたちが昼休みとなる12時までにはまだ間があったから、カウンターを占めていたのはご飯を食べた後に三越や高島屋にでも出向くのだろうか、二人から三人づれのご高齢のご婦人たちばかりだった。「あの人、天ぷらが大好物だったのに気の毒ねえ。油がいけないのかしら、もう食べちゃいけないんですって」なんて話を耳にしながら、一心不乱、あっという間に掻き込んだ。

「弟歯医者の10日後の予約も昼時だし、次は利休庵の納豆そばにでもするか」などと目算を立てる。日本橋では江戸前のものが食べたくなる。「花より団子」か「団子より花」か、おかめ桜が満開の季節ならなおさらだ。しかし考えてみれば、「あの日も満開だったんだよな」と想い起こした6年前も、アメリカの大統領はトランプだったのだ。新型コロナ禍など想像もつかずロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ破壊が始まっていなかったことを差し引いて考慮しても、あの頃はここまでひどくなかったのではなかろうか。二期目として就任してからまだたったの2ヶ月だというのに、いやはや…。私が勤めていたのはアメリカの会社だったのだけれど、今も働いていたとしたら一体全体どんな心持ちを日々に抱えることになっただろうか、そんなことすら考える。

私は夕食を終えてから寝床に入るまでの数時間、ウィスキーをちびちびやりながら過ごす。だいたいはアメリカはケンタッキーのワイルドターキー8年をペリエで割っていた。しかし彼の就任前に買い置きしてあったワイルドターキーはすべて飲み切ってしまった。どうしたものか思案したんだけれども、なんとなく今はアメリカのものを身銭を切って買い求める気になれない。50%ほども安価なカナダのカナディアンクラブにしておいた。常備しているテキーラも少なくなっていたからついでに買い足す。気がつけばふたつとも、彼が就任するなり真っ先に脅した隣国の酒だ。「なんとかファーストとか言って、なにかにつけて独り占めしようとする奴にロクなもんはいねえな」そんなことをつらつら考えながらカナディアンクラブをフランスのペリエで割って飲む。悪くない。ティム・オブライエンの「虚言の国」のページを開いてみると、本編に入る前にまずノーベル文学賞も受賞したアイルランドの偉大な詩人イェーツからの引用がこう記されていた。ああ、もうすぐ隠居の身。我らは心に幻想という餌を与え、心はそれを食して凶暴に育った。