隠居たるもの、橋にさしかかって呼びとめられる。休みの日に近所を歩いていると、どうしたことかいたるところで女性の行列に出くわす。2023年3月12日、この間の日曜日もそうだった。「あれはいったいなんの店なんだろう?」とつれあいに尋ねてみると、「ええと、あ、あそこはね、アイスクリーム」とどういうわけかすぐに答えを見つけ出す。聞けばOZmagazineという雑誌の2月号の特集が「清澄白河カフェめぐり」だったそうで、様子が似通ったうら若き女性たちがここ深川を闊歩しているのもその影響ではなかろうかという。
「ふうん、そんなもんかねぇ」と生返事をした私も、しばらく散歩を続けているうちに付け足すべき答えを見つけ出す。「ははあ、それに加えて、東京都現代美術館のクリスチャン・ディオール展だよ。」入場券はその日も事前予約で売り切れたと聞く。その多くが女性であるお客さんが、美術館を訪れる前後に、あたり一帯を回遊しているのだろう。そこに気づくと、かえって従前から営む店の暖簾をくぐりたくなるのが地元で暮らす者の人情だ。つれあいを誘って「久しぶりにもつ焼き稲垣に行ってさ、レバの塩焼きあたりで一杯やろうじゃないの」と立ち寄ってみたが、あいにく社員旅行でもしているのか、暖簾をしまったままの店の開き戸には「12日〜15日まで休ませていただきます」と張り紙がされていた。
安彦水産の品揃えは考え抜かれている
ああ、従前から営む店の暖簾をくぐりたい…。しかも「久しぶりに行きたい」とパッと頭に浮かんだもつ焼き稲垣は16日の木曜日にならないと店が開かない…。そもそもここ数日の予定からしてこの日曜日の他に外食に出るのは難しい…。夫婦は侃侃諤諤の議論の末、対応策を見出した。「3月14日、火曜の午前中に散歩がてら安彦水産に買い物に出かけ、マグロの中落ちをたっぷり買い込んで、贅沢にも我が家で中落ち丼を昼食にいただく」安彦水産(アシコスイサンと読む)は我が家から歩いて15分くらいになろうか、扇橋商店街にある地元御用達の魚屋さんである(といっても、近所の友人に教えられて私たちが知ったのはつい最近のことだが)。
この店はただものではない。まず、いいものしか置いていない。その分スーパーより割高ではあるのだが、そもそも安いものでスーパーと張り合ったところで勝ち目などない。考え抜いて「目利きがいいものを仕入れておくから、ちょっと奮発して美味しい魚が食べたくなった時にはうちに来て」と腹をくくったのだろう。だからこの日はお眼鏡にかなうものがなかったのかもしれない、私たちお目当てのマグロの中落ちはケースに並んでいなかった。それほど申し訳なさそうにもなく「ごめんなさい、今日はないんです」と告げられるのだが、「安彦水産にこの際すべてをかける」と決意してしまった私たち夫婦もそう簡単には引っ込みがつかない。結局、中トロ(1,000円)と青森のアイナメ(800円)を買い求め、海鮮丼にすることにした。
安彦水産の刺身を炊きたてのご飯にのせて
うちはご飯を土鍋で炊く。炊きたての美味しさは格別だから、酢飯にする必要もない。まずご飯を炊き、そこに海苔としそを散らす。その上に中トロとアイナメをのせる。トッピングは安彦水産でもらったわさび。そこに好みに応じて醤油をかける。ガリの代わりに春キャベツ。至福である。中落ちがなかったことで「とんだ出費だよ」とつれあいはおどけるが、ご飯を合わせても二人で2,000円ほど、どこぞのお店でこのレベルのものを食したと考えれば、おそらく半額で済んでいるに違いない。そしてその夜には、いっしょに買い求めたナメタガレイを煮つけて晩酌の肴とした。これまたふっくらほろほろととても美味しかった。愛した魚処 若松がすでに店を閉めている今日、近所で美味しい魚を口にする明快な方法が見つかった。しかも健康的に「散歩」のおまけもついてくる。そういえば、この日がホワイトデーであったことなど、私たち夫婦は思い浮かべすらしなかった(バレンタインデーも同様であったが)。
小松橋を渡ったところにできた“和牛博士”による初の小売り店
実はもう一軒、安彦水産のあとに立ち寄った店がある。「小松橋を渡ったところに、小さいんだけど肉勝(ニクカツ)という新しいスーパーができて、ここの肉がとてもいい」と、安彦水産を教えてくれた友人と姪が口をそろえる。表通りから少し入って入り組んだ裏道にその店はある。散歩がてら足を運んだ先日は、午後だったからか店内は閑散としていたのだが、ならば午前中にと再訪してみたら驚くほどに見違える。確かに品揃えが素晴らしい。調べてみると、ビストロや焼肉店を経営し、“和牛博士”(これまた大袈裟でちょっと気恥ずかしくなるが)として知られる人が、新規事業として扇橋と砂町銀座に小売店を出したのだそうだ。どうりで並んでいる弁当・惣菜類が見るからに美味しそうなわけだ。そして肉ばかりでもない。店舗の小ささを考慮してか、置かれている野菜などもさすがに厳選されている。なのにそれほどには高くもない。これまで通っていた大手のスーパー、足を運ぶ頻度が減ることだろう。
「食べること」こそが最大の楽しみに
3年と少し前のことになろうか、「年金だけでは老後に2000万円足りなくなる」という金融庁報告書が発表されて大騒ぎになったことがある。それを作らせた当事者である当時の安倍政権は、あろうことかその報告書を受け取らず、それ自体を「無かったこと」にする。その際、「小さな声を、聴く力。」という素敵なコピーを掲げている公明党の当時の国会対策委員長は、計算の根拠をただして「年老いて、食費で月額6万円を使う夫婦がいますか?いませんよ!」と声を荒げた。しかし計算してみると一人一食327円。はてさてこれがどれほどの贅沢だというのか?ましてやなにもかも値が上がる昨今である。そもそも彼らには小さな声は聴こえないのだろう。正直、近所に次々とできる新しいカフェに興味は湧かないが、自身が口にし身体に入れる食材が豊富に選択できる環境が整うことは手放しで嬉しい。これから将来、目も耳も弱ったとして、もしかしたら「食べること」こそが最大の楽しみになるかもしれないのだから。
「美術館はどっちですか?」
木場公園からウォーキングの帰り道、やはり橋にさしかかったところで、スマホを手にキョロキョロしている女性の二人組に呼び止められた。「あのぉ、美術館はどっちですか?」東京都現代美術館にクリスチャン・ディオール展を見に来たのだろう。予約の時間があるので少し慌てているのかもしれない。「ここをまっつぐに下りていけば、公園とともに右手に見えてくるよ」「やっぱりそうだ…。ありがとうございます!」と彼女たちは先を急ぐ。ああ、もうすぐ隠居の身。その公園では桜が咲き始めていた。