あれは5月21日ですから先週のことになりますか、所用がございましてね、昼時に本所吾妻橋あたりをうろうろしていたんでございますよ。今にも雨が落っこちてきそうで、東京スカイツリーのてっぺんがちょうど雲にかかるかどうかって塩梅でした。まったくの昼時なんでどこぞで飯を食わねばならず、うまい具合にほっつき歩いてた路地裏に蕎麦屋を見つけたんでそこに入ったんでございます。「こりゃあ当たりだぜ!」なんて膝を叩きたくなるほどにね、蕎麦がぴしっとしまって美味しゅうございました。
「富岡八幡宮の近くの知り合いがね、店を閉めたのよ」
それはそうと、まばらに座るよう案内された席で、注文した蕎麦が来るのを待っている間のことでございます。馴染みと思しきひとり客の姉さんとおかみさんがね、それはかしましくおしゃべりをしておられました。職人の虎の穴みてぇなこの町の姉さん方ですからねえ、こっちに聞くつもりはなくとも大きな声を張り上げて無理矢理に耳にねじ込んでくるわけでございますよ。まずは蕎麦屋のおかみさんがこう切り出したんでございます。
「門前仲町の富岡八幡宮のさ、ほらあの刃傷沙汰(にんじょうざた)、覚えてる?」
「2年半くらい前だっけね。宮司のお姉さんが実の弟に日本刀で切りつけられて殺されたあの事件でしょ?」
「そうよ、そのあと弟の方も境内で自分の心臓を刺して死んじゃったあれよ。」
こちとらそっち方面からノコノコ本所にやってきているもんでね、ついつい聞き耳をたてちまったんでございますよ。
「知り合いがね、富岡の近くでやっぱり食べ物屋さんをやっててねえ。あの刃傷沙汰の後にお客さんがめっきり減っちゃって頭抱えてたのよ。そりゃあご利益があるとは思えないから来ないわよねえ。それでも1年2年と時が経ってさ、なんとか客足も戻ってきたと胸を撫で下ろしてたのよ。そうした矢先にこの新型コロナでしょ、待てど暮らせど『なんとか金』とかは入ってこないし、諦めてとうとう店を畳んじゃったわ。」
気の毒な話でございます。
ふてぇ野郎
そんな話が聞こえてきましたらね、「あっちがどこかしらの店に入って飯を食ったのは一体どれくらい前のことになる?」って、そんなことが頭に浮かんじまったんでございます。「ことによると、やっぱり日本橋の蕎麦屋 利休庵、あれが最後だったんじゃなかったのかい?」ってね。思い返してみたら4月3日のことでございましたよ。「なんでえ、外で飯を食うのもひと月半ちょっと堪(こら)えてたってぇわけかよ、来る日も来る日もあっちだこっちだと出先を渡り歩いてたってぇのによぉ」なんててめえに感心するやら哀れになるやら…。その間に泣く泣く店を畳んじまう方もいらっしゃるのにねえ…。
それがどうです?黒川とかぬかすあのふてぇ野郎は。奉行所のお偉方だってえのに、この5月にもご法度の賭場に出入りしてたってぇじゃありませんか、しかも混じっちゃあいけねえやくざ者たちにからまって二度だってぇんですぜ?家にこもっているみなさんが、あの野郎のためにさんざっぱら焦れったい心持ちになってたってぇのにですよ?まったくもってふてぇ野郎だ!いいですかい、ふてぇ野郎ってぇのは、図々しくて厚かましい野郎のことをいうんですぜ。やくざ者ともども、出るところに出てきやがれ!ってそばをすすりながらつい頭に血が上っちまったんでございますよ。
厚顔無恥な親方は「卓越した模範」と胸を張る
さすがにあのふてぇ野郎も観念して身を引くことになり、これでさっぱりするかと思いきや、どうにもいけませんや。あのふてぇ野郎に開き直られちゃあ困るとでもいうんですかねえ。手切れ金をたっぷり渡した上で「ちょこっとだけ叱っておくよ❤️」って、なんですかいあれは?「私に責任がある」と親方は大見得を切っておきながら、「係りの者がこれで済ましてくれっていうから、『ああいいよ』って言っただけで、実のところ与(あずか)り知るところではない」なんて、他人事にしてしらばっくれちまうんだもの…。真に受けるおめでたい奴がどこかにいるとでも思ってるんでしょうかね?ああ、徳川様だったらなあ、あの暴れん坊あたりだったらなあ、仮に係のものが「このあたりで穏便に」と進言したにしても、「ならぬ、民が心を安くして暮らせるよう自らをより厳しく戒めよ」なんつってね、スカッと唸らせてくれたんじゃねえかな。それが筋ってもんじゃあありませんか?遊び人の金さんだってそうでございましょう?真面目な大岡様、越前守忠相(ただすけ)さんだってそうさな…。
なんだかクサクサしちまうんでございますよ。せいぜい「布製のマスクを2枚賜るからありがたく受け取れ」ってお門違いなお達しを出しただけ、それすら下々にはまるっきりのこと届いちゃあいないし、その他もギックリバッタリするばかりでなにひとつまともに治められちゃあいない。あっちもね、ひと月半と少し、食べたいものを言葉にも出さず辛抱しましたよ。みなさんだってそうでしょう?とどのつまりそういうことでしょう?あげくに店を畳んじゃった方だっていらっしゃるんだ。なのに、世界に誇れる「卓越した模範」なんつってひっくり返るくらいにそっくり返って威張ってんだ、あのお方は!「この人、大丈夫?」って、いささか心配になりましたよ。「なんか悪いもんでも食っちまったのかねえ?」なんてね…。いくらなんでも限度ってものがございましょうに…、それも言うに事欠いて…。うちのかかあなんざぁ目が飛び出ちゃうんじゃないかってくらいに驚いておりましたよ。「竹を割ったような」なんてぇと聞こえはよろしいんですがね、こちとら単細胞の江戸っ子でございます。どうにも長州様のやることはねぇ…、そうだからというわけでも本当のところないんでございましょうがねぇ…。あれを厚顔無恥っていうんですかい?
本所吾妻橋再訪
隠居たるもの、秘めたる自分を解き放つ。あの蕎麦屋にはなにかがいるに違いない。私の中のもう一人の私が、今までに経験がないほどにむくむくと湧いてきて身体を乗っ取った。あれから1週間経った今日は5月28日、あの蕎麦屋の暖簾をくぐりはしなかったが、やはり所用があって本所吾妻橋を再訪した。その所用というのは「山の家プロジェクト」打ち合わせ、人の出入りが少ない展示場でこっそり進めているのである。自転車にまたがった帰り道、遠回りして蔵前の乾物屋に立ち寄って、好みの調味料なんぞを見繕う。ああ、もうすぐ隠居の身。あと一息なのである。