隠居たるもの、凝り固まらずに柔らかくありたいものだ。つれあいに望まれて迎え入れた新しい「おともだち」たちは偉そうだ。リビングで我が物顏にくつろいでいる。以前の私には、この手のものを許容する余裕がなかった。歳とともにキャパシティが広がり、許容どころか歓迎さえしている。少し居心地悪いが「ワルく」ない。
姪と後輩の結婚披露宴
昨日、姪と中学高校サッカー部後輩の結婚披露宴が催された。親族だけの親密な宴だった。姪とは子供の頃から遊んでいるし、新郎である後輩のことも彼が高校生の時から知っている。そんなふたりが出会うキッカケをお膳立てしたのは私だったから、感慨もひとしおでまさに感無量だ。もちろん、出会ってから先は若者が自分たちで考え進めたことであるので、必要以上に恩着せがましく振舞ってはいけないとも思う。
「小さな村の物語 イタリア」
BS日テレに「小さな村の物語 イタリア」という番組がある。なぜか好きで、放映時間にTVの前にいるとつい見てしまう。そこに映るのは穏やかな日常だ。そこで思う。私たちは「変化」という言葉に踊らされ過ぎていないだろうか?確かに、技術の進歩はめざましく、それによって暮らしも仕事も大きく変わることもあるだろう。それが不安にもなればモチベーションにもなるだろう。でも、落ち着いてみようじゃないか。いつも目を三角にするほどの、人間存在の根本が問われるほどの、劇的で本質的な「変化」が起きているのだろうか。右往左往しているだけじゃないのか?ここを乗り切れば「変化」はいつか終わるのか?あおって誰かが儲けてるだけじゃないのか?それどころか、その挙句に人間存在の根本が崩壊しているんじゃないか?
You’ll Never Walk Alone.
人間は、結局は人間だから「変わらない」ものは変わらない。「変わらない」ものを大切に思い、それを守るために少しだけ「変わる」人たちの豊かさを「小さな村の物語 イタリア」は教えてくれる。あらゆる世代の親族が、ふたりの若者の前途を祝うために集った結婚披露宴、そこに流れる通奏低音はイタリアの小さな村で奏でられる旋律となんら変わらない。誰もが、誰かと誰かのミッシングリンクだ。この日、ヨーロッパチャンピオンズリーグはリバプール優勝で幕を閉じた。リバプールのサポーター同様、私は君たちふたりに「You’ll Never Walk Alone」と歌い続けるだろう。
「変化」を声高に叫ぶ者の扇動にはのるまい。ああ、もうすぐ隠居の身。変えてはいけない、ささやかだけど大切なことがあるのだ。