隠居たるもの、蟹をほじほじ「完璧な一日」を反芻する。2025年9月4日木曜日、私たちは朝から夕方までレンタカーを借りていた。「この日にちょっとしたドライブに出かけよう」と計画した時点でまだ台風の襲来は予報されていなかった。しかしあれよあれよという間にニュースは台風15号一色となる。4日から5日にかけて列島を横断するというのだ。傘と雲のマークが刻々と入れ替わる天気予報を睨みながら「午後早くに戻れば大禍はなさそうだし、とにかくレンタカーは借りちゃったんだし、抜き差しならないようだったら車があってこそ可能な近場の用足しに専念すればいいし…」と右往左往する。そもそも私たちは何をしようと車を借りたのか。目的地は糸魚川のひすい海岸、ここ数年の夏の恒例行事、「綺麗な石を採集する小旅行」のためだった。

国道148号線
朝起きてみるといたって穏やかな晴天だ。あらためて確かめると「台風15号は奄美大島に接近中、長野県では4日昼過ぎから5日夕方にかけ局所的に雷を伴って激しい雨が降る」との予報。プランAで決行することにした(ちなみにプランAとは「早々に出かけて昼過ぎには少なくとも栂池のあたりまでは戻ってくる」という作戦)。散種荘から谷に向かってまっすぐ下りて、白馬駅前を貫く国道148号線にぶつかったら左折、あとは小谷村からユネスコ世界ジオパークに認定されている糸魚川市の山間部、長いトンネルをいくつもくぐるその道をひたすらまっすぐ走るだけ。ハンドルを握ってから1時間ほどもすると両脇に迫っていた山々はなりを顰め、そうこうするうち国道は終点に突き当たり、眼前にドンと日本海の水平線が開ける。


ひすい海岸で石ひろい
フォッサマグナの痕跡も荒々しい山間から、億とか何千万とか気が遠くなるような年月をかけて様々に形づくられた石たちが、川を伝って波に返されこのひすい海岸に流れつく。その中にときおり翡翠も混じっているからこの名がついたわけだが、私たちは血眼になってそれを探そうというのではない。神秘的で美しいただの石をいくつか拾って帰るのが目的だ。それを何に使うのかというと家内を彩る装飾だったりアクセントのための庭石だったり。するとなると「せっかく糸魚川まで来たのだからして相応の数を持ち帰りたい」と思うのが人情、よって「電車でなく車で」という選択となり、その上に「夏ともなれば一度は海を眺めておきたい」との思いが頭をよぎるから夏の恒例行事となる。台風が迫る平日の海岸は人もまばらだった。背中一面に彫った刺青をこれみよがしにさらして日光浴をする物哀しい反社会的勢力と思しき一団を尻目に、親子連れやひすいハンターの夫婦に混じって波に濡れぬよう心がけながら、私たち夫婦は目を落としてしばらく海岸線を歩く。

道の駅 マリンドーム 能生
糸魚川市にはもうひとつ「道の駅 マリンドーム 能生」という名所がある。「能生」と書いて「のう」と読む。「かにや横丁」をはじめ海の恵みを集めた「日本海の道の駅」だ。先のお盆休みに「ショロー5」で囲んだバーベキューには後日譚があった。私達夫婦を除く「ショロー3」は、二人の娘と大型犬2頭を伴い、せっかくだから帰りがけの昼食は蟹を目玉にした海鮮料理をと道の駅 マリンドーム 能生に足を伸ばした。そして誰かが犬の面倒を見ていなければならないから、男性陣二人と女性陣三人にグループ分けし交代でかわりばんこに店に入ろうということになった。


あんこうタルタルバーガー
しかし、先攻となった男性陣二人が名物の海鮮定食セットにありついている間に、酷暑にさらされた二頭の犬がばててしまう。後攻の女性陣はやむなくテイクアウト可能な「あんこうタルタルバーガー」を買い求め、それで昼食を済まさざるを得なかったそうだ。とはいえ日本海の荒波にもまれたあんこうは糸魚川の名物、それはそれで女性陣は感動したのだという。つまりこのエピソードがつれあいの心の琴線にビビッと触れたのである。道の駅だけあってここは車でないとアクセスが悪く、いつか立ち寄ってみようと悠長に考えてはいたものの、実現しないまま今日に至っている。つれあいが「ぜひともあんこうタルタルバーガーを食してみたい」とのたまう。ひすい海岸からマリンドーム 能生まで少しだけ行程を拡大すること、それがそもそもプランAには含まれていた。台風の影響が及ぶまでにはまだ少し時間がある。


念願のあんこうタルタルバーガーをほおばりながらあたりを見回してみると、アンテナショップを含め「新潟県立海洋高校」の文字がやたらと目に入る。ここ能生は大の里を筆頭にこのところ数人の力士を輩出し相撲界でも注目されている新潟県立海洋高校のお膝元、とにかく水産のメッカなのである。酒飲みである夫婦は当然に鮮魚店なぞを冷やかし乙なつまみがないか物色した。

かにや横丁でずわい蟹
「あらそう、白馬から来てるの。やっぱり涼しい?白馬は」、そんな会話を織り交ぜながら店のおばちゃんが蟹を選んでくれている。数軒の店が並ぶかにや横丁は8月下旬から9月の頭にかけて基本的に夏休み、しかしそれを知らない観光客のためにだろう(私たちもその一画を占める)、この一軒だけが店を開けている。私たちは松竹梅でいえば竹、中くらいのものを発泡スチロールの箱に保冷剤とともに詰めてもらうことにした。すでに鮮魚店で買い求めてあるたらこ煮とともに夜の食卓に並べるのだ。これをもって糸魚川での用事も完遂、雨が降り出す前に一路白馬に向かう。

トンネルを抜けると雨が降り始めた
国道148号線を辿って白馬に戻る途中、つれあいがナガノパープルという品名のぶどうを買いたいから、道の駅 小谷に立ち寄ってくれろと言う。ここに並ぶナガノパープルは特段に粒が大きくて甘くしかも安いんだそうだ。この道の駅を出てすぐのところに長いトンネルが待っている。それを抜け、白馬コルチナスキー場のオフィシャルホテルであるグリーンプラザ白馬の看板が国道沿いに現れたころ、強弱を交えた雨がとうとう降り始めた。

白馬に帰ってからも車のあるうちいくつか回りたい店があった。少し遠かったり、そもそもからして長大な物を買おうとしていた店などだ。その中のひとつ、高枝切り鋏を求めてホームセンターのコメリに立ち寄ったときのこと。このひととき雨はやんでいた。車から降りる私たちに、店から出しな目礼をする男女がおられた。曖昧に目礼を返して「はて、誰であったか」と頭をひねる。彼らが車に乗って立ち去ったあとすぐに思い当たった。先日、おおむね一人で暮らす私たちより少し年上と思しきご近所のご婦人が悲しいこと亡くなっていて、朝から何台か警察車両が並んだことがあった。二人はそのご婦人のご主人と娘さんであった。

It’s a Perfect Day
考えがあって別居婚という暮らしを選択しておられるのだろうとお見受けしていたし、実際に仲睦まじい姿を目にしてもいた。だからご主人のご心痛を想像するやあまりある。それゆえもろもろ整理のため訪れている気配を感じてはいたものの、お悔やみを伝えたい気持ちを抱えつつ無神経に接点を求めるのもはばかられた。しかし偶然とはいえこうして顔を合わせた以上、モヤモヤとつかえた心持ちをこのまま放っておくべきではなかろう。私たちは帰宅後に先方のドアを叩いた。ご主人と娘さんは招き入れてくださり、お線香をあげさせてくれた。前の晩にもその朝にも電話に出なかったので「窓を割ってでも中に入って様子を見てくれ」と警察に頼んだんだそうだ。持病のようなものはなく発作を起こしたと推定されるという。ご主人はやはり「ひとりで死なせてしまった」としきりに悔やんでおられた。「大雪が降った先の冬、日々に奥さんと声をかけ合って雪かきをしていたんですよ」、私はそんなことを話した。そうこうするうちご主人の顔が少しだけ晴れたように感じられた。亡き奥様のこちらでの暮らしぶりが目に浮かんだからかもしれない。

メロン坊やと同い年の男の子がまた近所にいて、私たちがお悔やみを終えて帰宅するころに保育園から帰ってきた。つれあいがナガノパープルをお裾分けすると、満面の笑みで「ぶどうをもらった!ボクはこんなに嬉しいよ!」と両腕を精一杯に持ち上げ、頭上でX字に交差させた。暗くなるころ雨が小降りのうちにレンタカー屋さんの社長が車を回収しに来た。私たちは風呂に入り、朝から冷蔵庫に入れて準備していた白ワインとずわい蟹を食卓に並べた。本格的な台風の雨が音を立てて降り始めた。蟹はもちろん美味しかった。そして私たちは脚の肉をほじほじしながらこんな風に語り合っていた。ああ、もうすぐ隠居の身。「なんか今日は完璧な一日だったな」と。