隠居たるもの、陽だまりにゆるんで不意にぽつり。2023年3月6日月曜日午後12時58分、朝から遊んだ八方尾根スキー場のシャトルバス乗り場、散種荘に連れ帰ってくれる便がやって来るのを待っていた。とても3月上旬とは思えぬここ白馬の暖かさ、着用枚数を減らしたものの、陽光がふりそそぐ中じっとしているお昼どきはそれでもおっつかない。首からネックウォーマーを剥ぎ取り、ジャケットのファスナーを開け放つ。少し前なら林道を歩いて帰ったところだが、急にここまで暖かくなると汗びっしょりになってしまうからバスを待つ。そんなとき、夜明けどきでもないのにどういうわけか「春って曙よ!」と、今は亡き橋本治による「桃尻語訳 枕草子」の書き出しが私の口をついて出る。白馬に戻ってきた四十雀が、すぐ近くでツーピーツーピーと囀っていた。

35年ぶりに大学の授業を受ける

4年前に亡くなった橋本治は「独自な世界を持つ天才的な作家」だった。その語り口がトリッキーであればあるほど本質をついていた。たとえばこの1980年代に話題となった「桃尻語訳 枕草子」だってそうだ。そもそも「枕草子」を著した清少納言は当時の若き女性なのである、いくら古文だからといって大家とされる男性研究者による物々しい訳文で学習させられるのはいかがなものか、若い女性風の現代語訳でこそ軽やかなそのニュアンスを表現し得るのでは?、そういう問題提起であった。さも当たり前のように教え込まれていたことに明瞭な疑義が生ずるとき、私たちはそこに知的な興奮を覚える。3月3日に受講した先輩の最終授業(退官講義)もそんな体験だった。

東アジア古代史を研究し母校文学部で教鞭をとっておられた先輩がこの春に退官(いわゆる定年ですな)となり、この分野の大家にふさわしく最終授業が一般にも公開された。「現代の人間は古代の碑文をこそ自身のルーツがそうあって欲しいという文意に恣意的に誤読する、その誤読を繰り返し吹き込まれるうちに私たちはフィクションを『歴史』と思い込む、だから『世界』をありのままに読解する努力を怠ってはならない、古代史は現代にそう呼びかけている」35年ぶりに大学の授業を受けた私はそのように受け止めたのだが、それが正しいのかどうか、それはこの春から少しはお暇になるであろう先輩と一杯やるときにでも確かめさせていただこう。

竹の湯別館:https://edokengo-jpwine-life.com/restaurant/the-local-pub-takenoyu_bekkan/

「竹の湯別館」の外では少年たちが素振りをしていた

いっしょに受講していた方々とそのまましっかり飲食することになるかと思いきや、めずらしくあっさり切り上がってしまったものだから、それを織り込んでいたであろうつれあいに慌てて連絡すると、「こっちはこっちで竹の湯別館という近所に新しくできたところで友だちと誘い合わせて飲んでいる。なんだったら顔を出してみたらどう?」とのこと。かつて銭湯に付随するコインランドリーだった場所が、名前もそのままに飲み屋になっているというのだ。同席している近所の友だちというのは私の文学部の一年後輩でもある(私が一年留年しているものだから、卒業年が同じことをとらえて彼女は同級生と言い張るけれども)。私が店に着いたのは午後6時を少し回ったころ、店の前の通りで野球少年がふたり素振りに精を出している。そうそう、この通りはずっと前からその道幅に似合わず自動車が滅多に通らない。店主に聞くと古くからある角の和菓子屋の息子たちだそうだ。ずいぶんと日が長くなった、「なんだか春だねえ」と感じ入るが、「桃尻語訳 枕草子」によれば「秋は夕暮ね」なのであった。

東京を後にしたのは大勢がよってたかって走っている最中のことだった

先輩の退官講義への出席をもって、この間の東京での所用を終えた私は、3月5日日曜日に白馬に戻る。気候の変動が著しく、春の訪れが年々に早くなっている昨今である、まともな雪で滑れるのはこの週が今シーズン最後かもしれない。乗車するはずの東京駅10時32分発の新幹線に合わせて庵を出立する。するとどうしたことか、駅に近づくにしたがってなにやら穏やかじゃない。この厳戒態勢はいったい何事か…。ああ、そうか。啓蟄のころの風物詩、東京マラソンであった。地下鉄に乗ってふとFBをチェックしてみると、知人がふたり走っているようだ。「42km走るなんてかえって身体に悪いのではないか?ほどほどにしておきたまえ」と思わないでもないが、そもそも道楽ってえやつはそういうものでお互い様だから仕方ない。

最高気温10.5℃、最低気温−2.1℃

今日の天気予報によると、白馬の最高気温は10.5℃で、最低気温は−2.1℃になるそうだ。夜中はかろうじて氷点下になるものの、雲のない日中はすこぶる暖かい。このところお日様に照らされ続けたスキー場の雪もずいぶんと緩んでいる。やはりまともな雪で滑れるのは今週あたりが今シーズンの最後となりそうだ。八方尾根スキー場の正面に見える高妻山の様子もなんだか霞んでいるようでいかにも春らしい。以前にも触れたが、道楽として長年スノーボードをやってきて体感していることがある。山にぴっちり雪が張りつくのはかつてと比べて2週間遅くなっていて、雪が緩みだすのが3週間くらい早くなった。つまり5週間ほどシーズンが短くなっているのだ。そして今冬はそれにさらに拍車がかかっているようにも見受けられる。雪に埋もれた散種荘のウッドデッキを取り戻す作業に取りかかれたのは、実のところ昨冬に比べて2週間も早かった。そう、「世界」をありのままに読解する努力を怠ってはならない。ああ、もうすぐ隠居の身。四季があってこその「春って曙よ!」なのである。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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