隠居たるもの、雪が緩むと身体も緩む。2024年3月26日、朝から春の雨が降っている。庭に積もった雪を少しずつ沈ませている雨を、散種荘のリビングから眺めている。ここ数日というものここ白馬も気温が高く、深夜といえども氷点下に下がることが滅多にない。冬がぶり返した「2月のような3月」も、残り数日となって大慌てで帳尻合わせにかかっているようだ。ウィンタースポーツというだけあって、スキーやスノーボードのシーズンというのは春の訪れとともに必ずや「終わり」を迎える。ではその節目に際して「寂しさ」に心持ちを覆いつくされるかというとそうでもない。どこか穏やかに「開放感」に包まれるからなんとも「いとおかし」だ。
「暑さ寒さも彼岸まで」、そしてどんづまりに降る名残雪
うるう年である今年の春分の日は3月20日であったから、彼岸の入りは17日の日曜日、そして明けは23日の土曜日となる。私はというと、いまだ強い風が吹く21日に夫婦で我が両親の墓参にうかがい、仕事に勤しむつれあいを深川に残し翌22日に単独で白馬に移動、残り少ないシーズンを我先に1日でも多く楽しもうと欲をかいてのことだった。いつもと変わらず15時50分に白馬に着いてみると、それはそれは静かで綺麗な夕暮れどきで、いくらかひやっとはしているものの、なんというか縮こまっているのがもったいないという空気感。冷蔵庫の冷凍室に残るものと買い求めて持参した惣菜で夕食は事足りるし、ここは駅から散種荘まで、スーパーに立ち寄ることもなく山に向かって登り坂を40分歩くことにした。標高が上がるにしたがい首筋あたりが心もとなくマフラーと手袋をリュックから取り出し装着するものの、周囲でさえずる四十雀たちもにぎにぎしく、あたりはすっかりはればれと春。なのに急転直下、彼岸も明ける23日があんな天気になるとは思いもよらなかった。
冒頭に掲載した写真を撮影したのは22日の16時39分、同じ方向にレンズを向けてすぐ上の写真を撮ったのが翌23日の13時06分。天気予報はピタリと当たり、朝からザンザンと雪が降る。降り出しが遅かったものだから除雪車も動けず、あっという間の雪景色。長期予報を確かめるとこの冬どうやらこれが最後の雪、「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、彼岸のどんづまりに名残の雪が降る。欲をかいても始まらない、スキー場に出かけるのは諦め、あられに変わりつつあるこの雪が午後遅くに雨に変わってそしてやむころに着くつれあいを、大人しく散種荘で出迎えることにした。
紫だちたる雲の、細くたなびきたる
「春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる」とは清少納言「枕草子」第一段の出だしである。現代語に訳すと「春は、明け方にこそ趣がある。だんだんと白みがかってくる山際の空、少し明るくなり、紫がかった雲が、細くたなびく、そこがいい」となろうか。「明け方」というわけにはいかないが、朝からスキー場に出向き、ゴンドラやリフトに乗って頻繁に高いところに身を置いてみると、ある日を境に「紫がかった雲」が「細くたなびく」ようになることに気づく。日曜日だというのにすっかりと空いていた24日の八方尾根スキー場がそうだった。
この冬はこれにて店じまい
10℃を超えたのではなかろうか、午前10時を過ぎて気温がグンと上がる。パノラマコースにある馴染みとなった豚まん屋で休憩し、豚まんを頬張りながら着込んでいたウェアを1枚脱いだ。もともと簡素な店だったけれど、なにやら雰囲気がより味気ない。見回してみるとガラス窓にかけられていた看板などがすべて片づけられている。ぽっちゃりした美人の店員さんに聞いてみると「今日で営業終了」とのこと。そう、しつこいようだがウィンタースポーツというだけあって、スキーやスノーボードのシーズンというのは春の訪れとともに必ずや「終わり」を迎えるのだ。はてさて、今シーズンこの娘から豚まんをどれだけ受け取ったことだろう。おそらく豚まんを口にすることも当分の間ないに違いない。
ウッドデッキ奪還作戦
3月に入ってあれだけ降った雪だけど、夜中に冷え込むこともなくここまで暖かくなると、さすがに重たく締まりがない。持てるテクニックを出し惜しみなく披露できる一方、目に見えて脚力がむしり取られる。こちとら初老にさしかかった身、無理と過信は後顧に憂いを残す。ほどよいところで午前11時に切り上げ、ジャンプ台の脇を通って歩いて帰る道すがら、より高いところから低きに流れる水はこれぞまさしく雪解けの様相。すぐにウェアのファスナーを全開にしてはみたものの、それくらいでは追いつかず散種荘に帰り着くまでには汗びっしょり。「ええい、こうとなりゃあついでにウッドデッキ奪還作戦だ!」
陽光にさらされ緩んだスキをうかがって、昨年の11月後半には雪をかぶり始めたウッドデッキ、つまりは庭への橋頭堡を取り戻すべく雪かきに取りかかる。姪孫のそり遊びのためせっせと2月に踏み固めたところは手強いが、案の定サクサクと雪山にシャベルが入るもんだからついムキになる。そうこうしているうちさらに汗をかき、「もう早いとこさっぱりと風呂につかっちまおうぜ」と夫婦の意見が一致する。
至福の一番風呂
「そうとなりゃあ温泉といきたいね」と夫婦は調子づき、こじんまりとした温泉を持つ近所のホテルに「これからひとつ風呂につからせてもらえまいか」と電話をかける。冬が過ぎてお客さんが減ったからかどうかはいざ知らず、「どうぞ」と快い返答をもらったことをいいことに、初老にさしかかった夫婦はおっとり刀で午後2時に、いささか厚かましくも男女それぞれに一番風呂を独り占め。陽の射す温泉に明るいうちから入り、大きな湯船でゆっくり身体を伸ばす、至福である。昨夏の胆石発作以来、あまりビールを飲まなくなったつれあいが待合所で「よなよなエール」を抱えて待っていた。自動販売機にあるこのビール、彼女のお気に入りなのだ。
身体が弛緩すると思ったら春だったね
歩いて5分という距離なのだけれど、ホテルを後にするなり私たちは辛抱たまらず缶ビールを開けた。いや「辛抱たまらず」という字面には嘘がある。最初からそのつもりだったのだ。仰々しい防寒着から解放されて、タオルをぶらぶらさせた風呂上がりの夕涼み、風に直接あたりながら飲むビール、陽気に誘われ身体を弛緩させながら飲むビール、春が訪れたばかりのこの「瞬間」にしか味わえない、かけがえのない「開放感」だ。シーズンが終わるからといって「寂しさ」にかまけている暇なぞなく、兎にも角にも春なのだ。半世紀前の吉田拓郎の歌にもあるではないか。ああ、もうすぐ隠居の身。「あゝあれは春だったね」と。