隠居たるもの、穏やかならざる響きに目を覚ます。2025年1月8日、午前6時40分といったところだったろうか、「ドン」もしくは「ゴン」、強いて言うならその間のような、そんな低い音が早朝の散種荘を揺らす。前日の夕方から再び降り出した雪はまたしても静かに凶暴で、夜の間に気配をひそめてあたり一面をよりいっそう白く覆いつくした。地響きのようなあの音、ひょろっと背の高いアカマツに積もった雪が、重さに耐えかね徒党を組んで、近くの地表に一団となり落ちたに違いない。目を覚ましたとはいえ布団の中はぬくぬくと心地よく、しかしながら初老の身にはままならない尿意も差し迫っていて、どうしたものかごそごそ寝床で悪あがきを試みる。でも綱引きはそう長くも続かない。観念してベッドから起き上がり、トイレの電灯のスイッチにパチリと指をかける。あれ?え?点かない…。やれやれ、停電だ。
毎日どこかで停電が
白馬では冬になると小規模な停電があちこちで頻繁に発生する。アカマツや杉など背の高い常緑樹が積雪の重みに堪えきれず、折れて送電線に倒れかかって支障をきたし、あたり一帯の電力網をストップさせてしまうからだ。私たちが不在にしていたときに、散種荘が位置する一帯は少なくとも2度は停電になった。なにをもってそう推測できるのかというと、間を置いて戻った際に、おおむね停止させている居室換気扇が動いていたことをもってして。この機械は通電の拍子に自動的に作動するよう設計されているからだ。しかし停電の最中にここに居合わせたことはこれまでになく、身をもって経験するのは実はこれが初めてなのである。
蓄電池、満を持してお初の出番
とはいえ準備は万端、狼狽えるには及ばない。暖まで電気に頼る家屋にとっては死活問題であろうが、原始的な薪ストーブが主役である散種荘にさしたる影響はなし。調理器具もIHでなくガスコンロだ。だけれどもここでひとつ、生活に欠かせない設備が盲点として浮上する。トイレだ。今どきのトイレは立派に電化製品だから、電気が通らないとうんともすんとも言わない。つまり流れない。しかしこれも心配ご無用。こうしたときに備えて家の隅に控える蓄電池、満を持してお初の出番だ。「ほったらかしておいていざ使おうとしたら放電していた」というありがちな話を尻目にして、POWERをONにすると「蓄電量100%」と頼もしい。だからといって貴重な電力を野放図に使うわけにもいかず、「2階のトイレは使用不可で1階のトイレのみ蓄電池に繋いで使用可、スマホやランタンの充電は状況を見つつとりあえず後回し」などとコンセンサスを重ね、私たち二人は静かに送電の復旧を待つ。
停電の中心地
「そうか、wi-fiを飛ばすルーターだって電気機器だものな、ノートパソコンが充電されていようがインターネットにはつながらないか…」。スマホの4Gにギャザリングすることも可能だが、この機能は電力を多く消費するのでこの場面では無闇に使うべきでない。もちろんステレオセットだって動かないから音楽で気を紛らわすこともできない。はてさてどうしたものか…。とにもかくにも尋常ならざる雪がひと晩で降ったのだ、玄関アプローチの雪かきをしないことには話が始まらない。外に出て積雪量を「膝まで埋まるほど」と確認し、顔を上げ道に沿って走る送電線に注意を向ける。山に向かう西方面がいくぶんたわんでいるように見受け、首を捻って合点がいく。隣地の雑木林のしかも散種荘との地境近辺で高く伸びていたアカマツが、バッキリ折れて送電線にもたれかかっている。中部電力からこのあたりの停電が公式に発表されたのは午前7時のことだから、早朝に聞いた「ドン」もしくは「ゴン」、強いて言うならその間のような低音は、どうやらこの木が送電線に倒れかかったときの衝撃音だったようだ。アッと驚く為五郎、私たちは予期せず停電の中心にいたのだ。
中部電力のミドレンジャーたち
「はい、このアカマツが停電の原因です。クレーン車が到着してから撤去作業を始めますので、そうですね、復旧は1時間から1時間半…、もう少しかかるかもしれませんが、お昼を越えることはないと思います。」雪かきをしていると、中部電力パワーグリッドの緑色の防寒作業着を着用した爽やかなイケメンが現れた。隣地の倒木を見上げて状況分析をしているその青年に話しかけて得た回答だ。この日、私たちは午後3時16分発あずさ46号で東京に戻らねばならなかった。「復旧に時間がかかるなら不便なだけだしもう駅に下りようか、でも確認するためにパチパチといじったどこかのスイッチがONになっていたら通電したときに困るし、はてさてどうしたものか…」と3時間を超えた停電にいささか困惑していた私たちは、これで落ち着き復旧を待ち続けることにする。するとなるととりたててすることもないから、どうしても外、つまり中部電力の青年たちの動きが気にかかる。クレーン車を待つ間、緑色の防寒作業着を着用した二人の青年は、寸暇を惜しんで周辺の電柱によじ登り点検し、降り続ける雪を払い落としていた。
冬の白馬において中部電力はサンダーバードである
クレーン車が到着するとミドレンジャーは4人となった。しかもみなそろって若く涼しげなイケメンなのである。当然のことそれぞれに役割がありテキパキと働く。散種荘を中心に30メートルほどを通行止めとし、どうやったら安全にアカマツを撤去できるか思案する。
雪をまとった枝葉は重く、また一部は送電線にこんがらがるようにからみついてもいるので、まずはそれらを切り落とすことから始めることにしたようだ。クレーン車のカゴに一人のミドレンジャーが乗り、チェンソーを使って一本一本小気味よく枝を落としていく。
枝葉が落ちてひっかかりを失くし軽くなったアカマツが、ようやくクレーンで持ち上げられ撤去された。一人のミドレンジャーが電柱によじ登り、カゴに乗ったミドレンジャーとともに送電線の安全を確認する。午前11時40分、2階のライトがパッと点いた。やはりONにしたままのスイッチがあったのだ。それはともあれ、チームワークも麗しい停電復旧作業の一部始終に私たち夫婦は惚れ惚れとしていた。冬の白馬において、あの若者たちは江戸時代の町火消し、もしくは国際救助隊サンダーバードみたいなものだ。蓄電池もなんとかもった。今後のためにも各種の充電をあらためて始め、デマンドタクシーの予約を取る。これだけの大雪にも関わらず、めずらしいことにJR大糸線は定刻通り正常に運転されているという。
白馬にとんぼ返りしてみると
東京における抜き差しならない用事を9日と10日の2日間で済ませて、1月11日に白馬にとんぼ返りした。散種荘に戻るべくデマンドタクシーを頼んでみると、やってきたのは8日に大雪が降るなか駅まで乗せてくれたあの運転手さん、この人はフレンドリーで人がいい。「ようやく昨日の午後くらいかな、やんだのは。とにかく降り続いて、すっごい雪だったよ。え?8日に乗ったあずさ46号、結局は線路への倒木で80分も止まったの?あげくに新宿直行のはずが松本止まり?そりゃあ大変だったね。それでもその日のうちに帰れたならよかった」などと2日間の消息を語り合う。確かに積雪はとんでもなく、ウッドデッキではとうとう私たちの背丈を超えていた。しかし換気扇は動いてなかったから、新たな停電はなかったようではある。つれあいが姪孫たちの「そりコース」を作り始める。ああ、もうすぐ隠居の身。この冬のコースはスリリングになりそうだ。