隠居たるもの、あまりにあまりな「忘れもの」。例えばサッカーでこんな場面を想像していただきたい。ディフェンス陣を完全に切り崩し、周到にしかも優しく折り返されたセンタリング、あとはフリーでボールを受けたフォワードが角度を変えてゴールに流し込むだけ、得点の歓喜にそなえてサポーターも立ち上がる、なのに余裕を持て余したのかまさかまさかのシュートミス、当のフォワードもチームメートもサポーターも頭を抱えて目を見開き中腰となったまましばらく身動きが取れない…。2025年2月26日午前11時20分ごろのこと、私は八十二銀行白馬支店の前にさしかかってようやく「忘れもの」に気づいた。いくらなんでもという衝撃に頭を抱えて目を見開き中腰となる私、「どうしたの?」と問いかけるつれあい。ことの次第を告げるとにわかには思い至らなかったのか彼女はキョトンとした顔をする。しかし目を見開き頭を抱えて腰を落とすまでにそう時間はかからなかった。

2月26日水曜日の予定やいかに

再びの寒波のピークが過ぎた2月23日日曜日の夕方に再び白馬入りした。この日は三連休の中日にあたる。日暮れ前の駅前ロータリー、インバウンドさんと国内からのお客さんが混じり合いとにかくごった返すことが予想された。だから駅に着くなり予約しておいたデマンドタクシーに乗り早々に散種荘におもむく。宅配してくれるスーパー デリシアにあらかじめインターネットで発注してあるから買い物をする必要はない。何時間か前に玄関口に届いているはずだが、気温が冷蔵庫内より低いから外に置かれていたところで生鮮食品が傷む心配も毛頭ない。週間天気予報をにらみ翌日の月曜日と火曜日はスキー場に足を運び、少し天候が崩れる26日の水曜日にあらためて買い物しに山を下りてくる、そんな予定にしていた。

予報はあたり、うっすら降っていた雪は午前10時を過ぎたころにやんだ。さて買い物に出かけよう。近くの停留所を10時50分に出発するシャトルバスに乗り八方バスターミナルまで連れていってもらう。本来はスキー場に向かうお客さんに限定されているのだが、もはや朝ともいえない遅い時間のバスに乗客は少なく、常連で顔見知りでもある私たちにドライバーもめくじらは立てない。バスターミナルから駅に向かう道は寒波が一段落して除雪も行き届いており、初老の夫婦は「里に下りると違うね」などと伸び伸び足を進ませる。ちゃっかりうまいことやって無料のシャトルバスで歩きやすい道まで厄介になり、道すがら馴染みのアウトドアショップを冷やかし、駅近くのうまい店で蕎麦をすすり、何日分かの食材をスーパーで買い込んでデマンドタクシーに乗って帰る。山に雲はかかっていても麓の陽気は風もなく穏やかで、いい心持ちだったのだ、八十二銀行の前にさしかかるまでは…。

実のところ山を下りる最大の理由は八十二銀行にあった!

この日、もっとも大事な用事は実は八十二銀行に寄ることだったのだ。ではなんの用事が八十二銀行にあるのか。税金を支払わなくてはいけなかったのだ。必要もないので詳述することは避けるが、私たちは大した額ではないものの長野県と白馬村に法人地方税を納める義務がある。県庁や村役場の出納課以外では、地元の金融機関に手数料を落とすためだろう、長野県を本社とする地方銀行か信用金庫もしくは県内の郵便局でないと支払えない。しかもうちの会社の決算月が12月なのでそこから2ヶ月以内の2月中に。東京都への法人地方税や消費税、納めるべき他の税金はすでに深川で支払いを済ませている。長野の地方銀行の支店が東京にないわけでもないが、わざわざそのためだけに街中まで出向くのも面倒くさい。だから26日に里に下りるにあたり、そもそももっとも重要な目的は八十二銀行白馬店に立ち寄り残った税金を納めることで、買い物こそが「ついで」のはずだった。なのにアウトドアショップとか蕎麦屋とか買い物とか、朝からレジャー的に盛り上がっているうちに、夫婦はそろってきれいさっぱり肝心の税金のことを忘れ去り、周到に用意してあった納付書やお金を入れた封筒を散種荘に置いたまま、なんの疑いも持たずに出かけてきてしまったのだ。しかし、愕然としたまま声も出さず頭を抱えたところでどうにかなることもない、2月は残りあとわずかだ。

そば神で作戦会議

「ああ、うっかり忘れないようにとわざわざ派手なピンクの封筒に入れてきたのに…。ああ、うっかり忘れないようにと昨日のうちにわざわざその封筒をサコッシュに目立つよう差し込んでおいたのに…。ああ、出かけるときのお供たるサコッシュであれば絶対に忘れることはないと思ったのに…」そば神で冷たくピシッとしまった蕎麦をすすりながら私たち夫婦は嘆き合う。考えてみれば冬はスキー場に出かけるのが日常、財布などは身につけ、サコッシュを肩に斜めがけすることもない。それ故そもそもそのサコッシュに差し込むこと自体が万全の策ではなかった。しかも「決して責めているわけでないことを重々承知の上で聞いてほしいのだが、『シャトルバスに乗るとき提示を求められることもないだろうけど、用心のためにシーズンリフト券は持って出た方がいいよね』と君が言っただろ?そうだなと思ってさ、リフト券をウェアから取り出して財布にいれたんだ。そしてその財布を考えることもなくそのままダウンのポケットに入れた。その拍子にこれでこと足りたとなんだか安心してしまって、税金ともどもサコッシュなんかはるか忘却の彼方となってしまったんだ。リフト券の提示はやっぱり求められなかったし、ああ、“老いるショック”…」

昨年末に敬愛する師 みうらじゅんの“老いるショック”という言葉に出会っていたことこそ僥倖である。そうでなければ私は自らの失態をくよくよと果てしなく責めさいなんだであろう。とはいえそうしたところで詮はなし。もう“老いるショック”とお互い肩をたたきあって笑い飛ばす以外に術はない。食事を終えるころには前後策も決していた。大した税金を支払うわけでもないのにタクシー代まで支払うのは癪にさわるし、昼の時間帯に適当なシャトルバスもない。だからウォーキングと割り切って私が散種荘まで歩いて取りに帰り、また山を歩いて下りてくる。予想される所要時間は1時間20分、その間につれあいは馴染みのアウトドアショップ数軒を冷やかしておく。「うらやましねえ、ウォーキングなんて」とにこやかな言葉に送り出されて、私は久しぶりに山に向かって歩き出した。

今シーズンの私的ゲレンデ食大賞は栂池高原スキー場の牛肉のフォー

「結局、昨日は9km歩いたんだ。あまりの雪だったからこの冬に白馬で歩くこともなかったけど、もうずいぶんと雪も解けてつらくはなかったさ。とにかく、昨日のうちに税金を払い終えることができてよかった」27日の昼、私たちは栂池高原スキー場のレストランで牛肉のフォーをすすっていた。ベトナムはハノイの人気店 PHO THINの支店が今シーズンから出店されている。これが美味しい。2月も終わり近くなってオーストラリアの方々が少なくなってきたように感じる分、このレストランでもチャイニーズが目立つ。私のすぐ後ろに、レズビアンカップルと思しき若いチャイニーズが横に並んで座っていた。彼女たちもフォーをすすっている。なんだか幸せそうで可愛らしい二人だった。

実は23日に白馬駅から乗ったデマンドタクシーの男性運転手が絵に描いたようなネトウヨ陰謀論レイシストで、どんなYouTubeで仕入れたのか、根拠の疑わしい話を持ち出しては中国の方々を悪様に侮辱し続けた。インバウンドさんだらけの状況にストレスが溜まっているのだろうが、憎悪に囚われた陰湿な表情に辟易するばかりだった。しかし、あの幸せそうなレズビアンカップルはこんな哀れな人を気にもかけないに違いない。どちらが “自由”なのかは一目瞭然だ。“老いるショック”は「老いる恐れ」から私を解放し“自由”にしてくれた。ああ、もうすぐ隠居の身。もうそろそろ春だ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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