隠居たるもの、敗れざる者たちのことを忘れない。吹く風がひんやりしてきたかと思えば、陽が落ちるのもすっかり早くなった。中秋の名月を経てあと10日もすればお彼岸だ。ずいぶんと伸びた影の長さに気づくこんな折、「ここまで陽が低くなっていたか」と秋を実感する。その上で必ず想い出すひとつの光景がある。1971年の日本シリーズ第3戦、巨人の王貞治にサヨナラホームランを喫した、阪急ブレーブスのアンダースロー 山田久志の長い影である。

ドーム球場なんかなかったころ

かつて日本シリーズは10月にデーゲームで行われていた。ナイターでは寒かったのだろう。今より年間試合数も少なく、ドーム球場どころか、人工芝もなかった時代である。1971年の10月15日金曜日、私は7歳だった。近所のお兄ちゃんたちと野球をしていたから、ルールはわかっていたはずだ。しかし、試合展開を理解してテレビを見ていたとはとうてい思えない。だから、山田が巨人を完璧に抑えて1対0のまま9回裏を迎えて2アウト1・3塁そして迎えるは4番王貞治、こんなヒリヒリする状況を理解したのは後の回顧番組を見てのことと思う。勝負した山田は王に劇的なサヨナラ3ランホームランをたたき込まれる。精魂尽き果てガックリと膝をついたまま動けない山田、この光景を憶えているのだ。後楽園球場に射し込むすっかり傾いた夕陽は、悲運の闘将 西本幸雄監督に肩を抱かれてようやくベンチに退がる山田の影を長く長く伸ばしていた。

野球に必要なのは詩情だ

後に、私はアンチ巨人でパ・リーグ派に成長する。山田久志に深く抱いたシンパシーがそうさせたに違いない。そして、「絵画」のようなこの光景は、野球に抱く私の原風景となる。だから、中学に入ってサッカーを始めたこともあってか、「人工芝を張った昼だか夜だかわからないドーム球場で、下手くそなホーンを音頭にドンチャン騒ぎ」という環境推移にはついていけなかった。もう野球を観るのは、子供の時分より愛する日本ハムファイターズが勝ち進んだ年の秋だけだ。15年も前になろうか、シカゴで井口がいたホワイトソックスのデーゲームを観戦した時は詩情を味わえたのだけれど…。

ローター・マテウスの場合

ドイツにローター・マテウスという偉大なサッカー選手がいた。引退間際の最後の晴れ舞台だった、1999年ヨーロッパチャンピオンズリーグの決勝、彼がキャプテンのバイエルン・ミュンヘンは、若きデイビッド・ベッカム擁するマンチェスター・ユナイテッド相手に、1点リードで勝利をほぼ手中にしていながら、ロスタイムに2点取られて1対2で敗れ去る。「カンプ・ノウの悲劇」または「カンプ・ノウの奇跡」と呼ばれる衝撃的な決勝戦だ。表彰式で「こんなものが欲しかったわけではない」とばかり、首にかけられた銀メダルを即座に外す彼の憮然とした姿ときたら…、いやあカッコよかった…。そうする選手は今はいない。あれ以後、準優勝チームがみんな彼の真似してメダルを外すようになってしまい、「敬意に欠ける」と問題になったからだ。

え?それだから勝たなきゃいけないの…

「結局は勝ったもの、一番になったものしか人は憶えていなんだ!だから一番にならなきゃいけないんだ!」太った顔を紅潮させて部下にがなる声が耳に入っちゃって…。いまだ隠居にたどり着いていない我が身、勤務するオフィスでの出来事である。あまりの愚かしさにおののいちゃった、ここはプロスポーツの現場でもない。そんなつもりで仕事してるとロクなことを起こさない。若い子はどんな顔して聞いてたんだろうか。すぐに山田久志やローター・マテウスのことが頭に浮かんだ。一番になれなかった彼らを、私は崇拝さえしてしっかりと憶えている。ということは、私にとって彼らは敗残者ではない。「敗れざる者たち」なのだ。加えて、私は「他人の記憶に残る」ことを動機に生きていない。だから、こう思う。「君、大丈夫だよ。好きなことを見つけて、君なりに一生懸命やってれば、好きになってくれる人もいるからさ」と。

ああ、もうすぐ隠居の身。軽やかにいこうじゃないの、そう軽やかにさ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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