隠居たるもの、順番通りにやってくる、訃報ひとつひとつを噛みしめる。友人から、かつての名レスラー“ハンサム”ハーリー・レイスが、8月1日に76歳で亡くなったことを知らされた。1980年前後、私たちが中学生くらいの時が全盛期だったろうか。数を重ねて、誰かの往生に接するたび「時代が終わった」と必要以上に感傷的になることは流石にもうないが、輝くその人を見上げていたその時が鮮やかに脳裏に浮かびあがり、口の端にのぼる笑みをこらえきれなくなることはよくある。
プロレス観戦の英才教育
私の父は家内制手工業のような小さな工場を営んでいた。「男はつらいよ」におけるタコ社長の印刷工場を思い浮かべてほしい。小学校低学年までまさにあんな感じで、働くアンちゃんたちと生活をともにしていた。部屋にTVがない彼らは、ウチの居間で見る。TVは一台、待ち構えるは6人。ビデオなんてもちろんあるわけがない。その日は、「オバケのQ太郎」にドロンパが初登場する日だった。「ドロンパが見たい」という社長令息の願いは大人たちにすげなく却下され、すねて涙に曇る目で令息が見たのは、「国際プロレス」グレート草津の足4の字固めだった。「太陽にほえろ」も「3年B組金八先生」も現放送で目にしたことはない。裏番組が「絶対」のプロレスだからだ。
NWA世界ヘビー級チャンピオン
その当時、最も権威あるタイトルを8度も戴冠したのだ、ハーリー・レイスは。それぞれのレスラーが型を持っていた時代、ブレーンバスターからのダイビング・ヘッドバット、それが彼の必殺パターンだった。ジャイアント馬場に見舞った素早くて鋭角的なダイビングは、今も目に焼き付いている。“狂乱の貴公子”リック・フレアーによると、レイスは本当に「強かった」そうだ。訃報に際し経歴を調べてみたら、「サーカスなどに出場するカーニバル・レスラー」としてデビューしたのが15歳、観客から挑戦者を募り闘っていたという。なんと15歳で…。腕自慢の素人は常に「ガチ」だもの、それは強くなる。前述のリック・フレアーはこうも言っている。「レイスに並んで強かったのは“狼酋長”ワフー・マクダニエル(2002年没 享年63歳)」。ネイティブ・アメリカン、ワフーのトマホーク・チョップは凄まじく格好良かった。
なぜ“ハンサム”なのだろう、そうでもないのに
ヒール時代に「憎まれる」ため逆説的にそう名乗り、それをずうっとキャッチコピーに使ったのだそうだ。私は今も、地上波に残る週一回30分のプロレス中継を録画する。何回目かの隆盛を誇り、ドラマ仕立てでハードに駆け回る現代プロレスからすると、ハーリー・レイスが象徴するあの時代は牧歌的ですらあるだろう。しかし、あの時代の方が酒の肴になるんだ。なぜ?郷愁からか?そうではない。それは、プロレスラーその人が、そもそも常識を超えた人だったからだ。結局のところ「ショー」だったとしても、真面目な「演じるアスリート」である今の人たちと違って、当時のレスラーは「辺境からやって来て常識をくつがえす人」だった。長州力だってそうでしょ?「同調圧力」なんて言葉がなかった時代、私たちはプロレスを見ながら、「常識外」の凄さをワクワクと垣間見ていたのだ。プロレスに限らず、今は中々それがない。
そう、通り一遍はつまらない。ああ、もうすぐ隠居の身。“ハンサム”、あなたの「見せ場」を忘れない…。