隠居たるもの、どこか寂しい冬じまい。2022年4月9日雲ひとつない晴天の午前9時32分、マウンテンジャケットを身にまとい、頭にはヘルメット、小脇にスノーボードを抱えて足元は当然にスノーボードブーツ、汗びっしょりになって私たちは渡河作戦に挑んでいた。散種荘の裏を流れる、冬の間はすっぽりと雪に覆われる平川は、3月の雪解けとともに少しずつ顔を出し、4月ともなればすっかり姿を現す。この川を歩いて渡って、向こう岸すぐの47スキー場に出向いてやろうと目論んだのだ。しかし「年寄りの冷や水」とはこのこと、青年が言うほどにちっとも容易なことはなかった。
雪に隠れていたものが
前日8日の遅い午後のことだ。松本から白馬に降り立ったのは昼日中、もろもろ用事をこなして散種荘、水を通したりなんだりして腰を落ち着けゆっくりお茶を飲み始めたのが午後2時半、一息ついて「平川の様子を確かめようじゃないの」と散歩に出る。雪がすっかり姿を消した光景に「春だねえ」などとのんびり微笑んだのも束の間、目が慣れてくるに従って露わになった隣近所あちこちの被害を感じ取る。デッキがバッキリ崩壊していたり、もちろんまっすぐだった金属製の手すりが波打っていたり、ひどいところでは壁がはがれて家の骨組みが剥き出しになっているお宅があったり…。うちも小さな窓ガラス一枚だけ、二重ガラスの外側にヒビが入った箇所がある。屋根雪がどっさり落ちる拍子に、巻き込むように固くなっていた氷柱が悪さをしたのだと思う。兎にも角にもこの冬の雪は凄まじかった。
平川にも春は訪れていた。雪解け水が絶え間なく流れ、地を出した河原のあちこちでふきのとうが顔を出している。視察に満足してさあ散種荘に帰ろうという下り坂、後ろからさっきまで滑っていましたという風情の青年がひとり、スノーボードを抱えてスタスタと現れた。47スキー場から川を渡ってきたのだろうか。彼を待って聞いてみた。「歩いて川を渡ってきたの?」彼はキョトンとした顔でうなづく。「渡れるポイントがあるの?」彼はこともなげに答える。「はい、少しは濡れますけど、ちょっと上に浅いところがあって、ボクはいつもそうしてます」「あの石畳みたいになっているあたり?」「そうです」「やっぱり行けるのか!」初老にさしかかった夫婦は渡河作戦の意を決した。
そして僕は途方に暮れる
3月27日をもって各スキー場に連れて行ってくれるシャトルバスは運行を終了した。しかし雪が残るスキー場はゴールデンウィークまで営業を続けている。それに一度やってみたかった。対岸の47スキー場へ滑りに、こなれた感じでボードを抱えて川を歩いて渡って行ってみたかった。私たちはタクシーを頼んで八方尾根スキー場に行く予定を変更し、満を持して渡河作戦に挑むことにした。と、ここまでは勇ましかったものの、当日3分の2ほど渡った中州で途方に暮れた。残りの3分の1を渡るポイントが見つからない。気温は15℃くらいまで上がっており、ヘルメットと首の隙間から汗が滴り落ちる。ここまできて引き返すわけにもいかず、あの青年の「少し」の基準がいったいどこにあるのか首をひねりつつ、「ええいままよ」と足元をたっぷり川に浸しながら渡りきる。ぐっしょりとまではいかなかったが、靴下はしっとりと濡れていた。
さあキッパリと冬じまい
あれだけ降ったから、標高の高いところにはまだまだ雪らしきものがある。晴天率も上がるし春ならではの絶景も楽しめる。しかしその雪らしきものには締まりがなくすでに見る影もない。私たちはこれを最後にシーズンを終えることにした。今シーズンは合計で27日(つれあいは23日)もゲレンデに出たのだからお釣りがくるってもんだ。もう靴下のことは気にせず再び平川を渡った。するとなるとせっかくの晴天だもの、少し遅くなったランチをウッドデッキで食べよう。近所のおうちカフェほがらかでハンバーガーをテイクアウト。そしてこれはシーズンの打ち上げということなのだから、昼日中だけれどもビールだって堂々といただこう。このところアトリという群れで移動する小鳥たちが散種荘に頻繁に飛来する。気がつくと黒とオレンジが基調のこの子たちが、残る雪の上に陣取って、靴下を履き替えてハンバーガーを頬張る私たちを取り囲んで見つめていた。
スノーボード道具を点検し物置にしまう。可能なかぎりの雪囲いを片づける。自転車を引っ張り出しタイヤに空気を入れ、コメリまで買い物に行ってみる。帰りは当然に久しぶりのヒルクライムだが、なんとか最後まで降りることなく乗りおおせた。そうこうしていたら管理事務所の担当さんがやってくる。「来冬に向けて屋根雪対策を真剣に考えた方がいいかもしれません」とのこと。やはり大量の屋根雪がいっときにどっさり落下して、その重みで相当の被害が出たお宅がこの冬は何軒もあったそうだ。「冬じまい」とは、春を味わいながら次の冬を展望することに違いない。雪が姿を消すと隣近所のそこかしこから作業音が聞こえてくる。別れ際、私は担当さんに確認した。「そうそう、東京に戻るとき、もう水抜きはしなくていいね?」彼はニッコリうなづいて軽トラックで去っていった。ああ、もうすぐ隠居の身。気の早いカタクリが、ちらほらと咲き始めている。