隠居たるもの、久方ぶりに旅の夜。2022年4月7日15時37分、特急あずさ25号は遅れることなく終着駅の松本に到着した。夕方にはまだ時間がある木曜日の遅い午後、駅前の人影はまばらだ。白馬に向かう途上には違いないが、この日の移動はここまで。「近頃、旅情ってえのを味わっていないんじゃなかろうか?」つれあいがそう言うから、松本で一夜を過ごすことになった。一般的に旅情とは「旅に出て感じるしみじみとした思い。旅の情趣。」(デジタル大辞泉)だそうだが、つれあいの場合は「初めて入るよく知らない地方都市の小さな居酒屋で、地場の肴をつつきながらしみじみとやる一杯」のことを指している。
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酒場という聖地へ 酒を求め、肴を求めさまよう…
上記はBS-TBS「吉田類の酒場放浪記」のキャッチコピーである。しかし午後4時にもならないうすら明るい中をさまよっても埒があかない。駅から歩いて4分ほど、予約済みのビジネスホテルに荷を解き、パソコン越しにいくらか業務連絡をこなし、身繕いやら準備を整え街に出る。腹をへこませるためにも暗くなるまでそぞろ歩く。とはいえここは松本、行き先は自ずと知れている。これまでと趣向を変えて、今回は裏通りから松本城を攻めてみる。場所にもよるがこちらの桜はまだ五分咲きくらいか、信州の城下町の空気は夕暮れ時になってひんやりし始めた。
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天守閣から白鷺が飛び立つのを合図に私たちは卯屋に向かう
お目当てにしている店は、卯屋と書いて「うさぎや」と読む。松本をよく知るお客さんからつれあいが聞き出していた。天守閣のど真ん中、あたりを睥睨するように悠然と佇んでいた白鷺が、空もそろそろ心細くなってくる頃合いを見計らってパッと飛び立った。それを合図に私たちも駅にほど近い卯屋に向かう。思い起こしてみれば地方都市の居酒屋を訪れるなんて2019年10月の高松以来、2年半ぶりのことだ。新型コロナが市中に滲み出てからというもの、旅という旅をしていない。東京と白馬を行き来しているといったってそれは自身のテリトリーを巡回していることに他ならないし、熊本に出向いたのもあくまでそれは帰省である。「近頃、旅情ってえのを味わっていないんじゃなかろうか?」つれあいがそう言うのも無理もない。
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季節の山菜の天ぷらと信州ジビエ鹿肉そぼろニラ玉
店内はぎゅうぎゅうに入って24席ということだが、街中の人出も少ない木曜日、開店早々の時間帯、お客さんは私たちを含めて6人だった。ここは信州の食材で料理を提供する家族経営の人気店なんだそうだ。お客さんの中に、お連れさんと先端技術機器開発のお話に熱中しているそこそこ年配の白髪の紳士がいらっしゃった。「あの年でなんだかすごいなあ」と感心していたのだが、考えてみればさもあらん、ここはセイコーのお膝下、松本なのである。しみじみと合点し「これも旅情に違いない」と酒がさらに旨くなる。
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馬刺しとサッポロ赤星ラガーで始め、長芋とベーコンのチーズ焼き、季節の天ぷら盛り合わせ(ふきのとう、タラの芽、行者にんにく、野蒜の山菜づくし)の苦味ばしった爽やかさに春を感じて日本酒に移行(「信州の酒飲み比べセット」にしたんだけど、銘柄は忘れてしまった。しかし辛くて美味しかったことだけはしっかり記憶している)、そして信州サーモンの味噌焼きを経て、ホタルイカの醤油漬けで箸休め、最後にその野趣あふれるメニュー名から目を逸らせなくなっていた信州ジビエ鹿肉そぼろニラ玉で締める。多くの言を弄する必要があろうか。この間に仕事を終えた人たちがちらほら顔を出し店は活気づく。夜も8時になる前に、私たちは旅情を満たされ席を立った。しかし外に出てみると、夜の街は相変わらずひっそり閑としたままだった。
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一夜明け、珈琲美学アベでモーニング
ビジネスホテルの朝食はどうにも味気なくていけない。しかもそれで1,500円も取るからさらに驚く。だから当初から朝食はどこか他所でとることにしていて、ホテルの並びに格好の店を見つけていた。珈琲美学アベという老舗の喫茶店だ。顔を洗うついでに大浴場で朝風呂につかり、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の最終回を見終えて身支度整え出かけてみる。新聞を読みながらトーストを食べている地元の方々がいらっしゃる。私たちも朝食にありつこうとメニューに目を落とし、その充実したモーニングのシステムにびっくり仰天する。
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珈琲美学なんだからして、まずはコーヒーを飲まなくてはいけない。そこに自身の朝食をひとつずつ構築していくシステムになっている。私はこう注文してみた。普通のコーヒー450円・バタートースト50円・ポークフランク(2ヶ)100円、ゆで卵50円。つれあいは、アメリカン450円・バタートースト50円・レタスサラダ100円・プレーンオムレツ100円。さらにつれあいが普通のコーヒーをおかわりする(追加のコーヒーは200円)のに合わせて、私もとても好みの固さだったゆで卵をひとつ追加した。それにしてもバタートースト50円ってどういうことだ!しかもとっても美味しいときてる。店員さんもテキパキしていて朝から気持ちいい。すっかりとアベのファンになった。これぞまさしく旅情である。
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松本は「学都・楽都・岳都」
駅前にそう彫られた碑がある。信州大学があるから「学都」。実際に気の利いた感じの若者が闊歩している。サイトウ・キネン・オーケストラによるセイジ・オザワ松本フェスティバルが毎夏に開催されるなど音楽が盛んだから「楽都」。そして言わずと知れた北アルプスの玄関口だから「岳都」。自然に囲まれ文化の薫る穏やかで素敵な街だ。松本経由を思い立ったのは、7年ぶりの善光寺御開帳のあおりをくって割安な長野行き新幹線チケットが取れなかったからだが、観光客でごった返す御開帳に巻き込まれるよりも間違いなくこちらの方が性分に合う。旅情というのは、その地の日常にこっそり入り込むことでこそ喚起されるのだ。私たちは10時42分発南小谷行き特急あずさ5号の乗客となって松本を去った。ああ、もうすぐ隠居の身。白馬に着くのは11時41分だ。
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