隠居たるもの、奥歯の痛みが気にかかる。「いやあ、それにしても今回のW杯は面白かったですねえ」2022年12月22日、冬至の木曜日の昼下がり、コンドーくんが私の腰回りをポキポキさせながら興奮気味に話しかけてくる。月に一度のメインテナンス、日本橋でカイロプラクティックの施術を受けているのだ。「決勝戦、とんでもなかった。でも、かれこれ15年にもなるかい?『メッシの時代』の最後の最後に、ようやく神の子メッシがジュールリメトロフィーをかかげるとはなあ。ちょっと泣ける素敵な光景だったよな」なにごともないかのようにそう返す私であるが、実は上の左側、奥から2番目の歯がとても痛いんである。幸いなことこのすぐ後に、朝に電話したにも関わらず、以前に通った歯医者の予約も取れていた。

義理立てしてにこみを注文するのはあとにする

「コンドーくんにな『今回のW杯が面白かった第一の要因は、選手交代枠が3人から5人に増えたこと、まずここだぜ』と言ってやったんだよ。例えば日本のように前半と後半で違うチームにすることだってできる」などと、タコ刺し、マグロと分葱のぬた、やきとん、そこらへんを肴にギネスビールをあおる。近くで暮らす若い友だちに「W杯も終わりましたし、水曜か木曜に飲みませんか?」と声をかけられ、まさか歯が痛くなるとも思っていなかったから「ならば木曜、そうだな、店はコロナ禍以来3年近くもご無沙汰している山利喜にしよう」と返答していた。地域の象徴ともいえる下町の人気店である、午後6時を回ろうものならまず入れない。働き盛りである友だちはそんな時間に仕事を切り上げることができないから、私とつれあいで席を確保し先に始めている。案の定、ジョッキが運ばれてくる頃には満席になった。

山利喜HP:http://www.yamariki.com/

「でな、優勝に沸くブエノスアイレスで、アルゼンチンのユニフォーム、しかも10番のシャツを道ゆく人からもらってホームレスの男性が感極まる、とにかく泣けるあの動画もな、そうTwitterのやつだよ、一緒に見たりしたんだ。もちろんマラドーナの『本当のプレッシャーは、ゴール前やピッチにはない。いつ貧困に陥るかという不安、そしてアルゼンチン代表としてのプレッシャー、それだけだ』という言葉を添えてな。試合後のアルゼンチン各地の光景を見て、マラドーナの言葉の深度がようやくわかった。サッカー代表チームってのは、あの国にとって階級を統合する唯一の手段にして貧者のなけなしの希望だ。そのとんでもないプレッシャーを背負う自覚のない者はアルゼンチン代表の資格がない、マラドーナはそう言っていたんだな。ひとつやふたつ勝つたび『ブラボー!』って調子にのって喜んでたんじゃ、そりゃあいつまでたっても勝てっこないわな」そんなことを話しているあたりで、若い友だちがようやく合流する。熱々の玉子入りにこみ(玉子は2個の特注)を頼むことにする。

*何度見ても泣けるブエノスアイレスの動画はこちら:https://twitter.com/martinvars/status/1604778771503927297?s=20&t=lvdCSDAwYQmVLQQSsg19PA

その「歯ぎしり」はどこから来るのか

「そんなことより歯はどうしたのさ」とつれあいは聞く。日本橋はかつての勤務地で、しかも勤め先のすぐ近くに都合よく中学高校同級生の弟が歯科医院を開いていた。だから歯のメンテナンスはそこを頼りにしていたのだけれど、早期に定年退職した上にコロナ禍で億劫にもなっていて、すっかりサボっていた。同級生の弟は「知らず知らずにストレスをためて、就寝中に歯ぎしりをしていたりするんです。その圧力が最もかかった1本が、歯茎から少し浮いてしまってそこだけ高くなっちゃった。そうなると噛むときにその歯にばっかりあたるでしょ?結果、圧力に耐えかねて歯茎が炎症を起こした、そういうことです。すでに神経も抜かれて金属を被せてある歯ですから、低く調整するためにこのまま金属を削っておきます。しばらく痛みは残りますが、そのうち治りますよ」とのこと。だからその日のうちにこうして酒も飲んでいるわけだが、どうにも腑に落ちない。仕事に追われている若い友だちを前にして「ストレスって言われたんだよ」というのも面目ないし、だからといって明らかに症状は出ているわけで…。おそらく、熱戦続きのW杯観戦の際、相当に歯を食いしばっていたんだろうと思う。

せっかくだからもう一軒パトロール

「そういえば、常盤に新しくクラフトビールのパブができたろ?名前は知らないけどさ、そこに行ってみないか?」素直に帰ればいいものを、酒飲みってえのはついついくだを巻きたがる。すでににぎわっていて近隣から騒音の苦情すら出たと噂も聞いた。「グッドアイデア!」とばかり3人は意気揚々、清澄通りを真南に進路を取る。森下の山利喜から5分ほど歩いたところ、住宅に囲まれたエリアに忽然とBEER VISTA BREWERYは現れた。なんとも小洒落ていて客層もワールドワイド、それでもって山利喜と同様に満席。「おお、カッコいい店じゃん…」ひと組がお会計中だったので少し待っただけですんなり入ることができた。ついさっきまで「ザ・酒場」とでも呼ぶべき店に身を置いていたからこの落差にクラクラする。

BEER VISTA BREWERY:https://food-stadium.com/new-open/beer-vista-brewery/

行き過ぎた商業主義は本質を毀損する

新しいBEER VISTA BREWERYだけでは美しい夜にはならない、山利喜あってこその深川。今やこの共存こそがこの街の最たる魅力に他ならない。今のFIFAにはそんなバランス感覚は望むべくもなさそうだ。今大会の盛り上がりを前に、ジャンニ・インファンティーノ会長は、48カ国で開催される次回W杯のグループリーグを、当初計画の3チーム16グループから、4チーム12グループに考え直すことを表明した。するとなると、現在32チーム参加で総試合数64のW杯は、いびつなトーナメント構成を抱えながら総試合数104へと、とんでもない規模に肥大化する。とてもじゃないがひと月では終わらない。もちろん全試合観戦なんて無理だ。そこに加えて、4年に一度開催から3年に一度開催に変更するよう計画を立てているとも聞く。どうしてそこまで貪欲に過剰でなければならないのか。国際オリンピック委員会IOCを見るまでもなく、貪欲に過剰な商業主義を打ち出したFIFAは「さらに多くのものを出すべくレモンを絞ろうとしてい」て(FIFA前会長ゼップ・ブラッターの弁)、間違いなくサッカーの本質を毀損し、祝祭空間をでっち上げるために地球環境を破壊し続けることだろう。W杯の余韻にひたりつつも、同時にこれが「終わりの始まり」とも思えて寂しくなってしまう。神の子メッシがジュールリメトロフィーを頭上にいただいた姿、悲しいことに、これが「古き良きサッカーの最後の記憶」になるかもしれない。歯の痛みを忘れるほどに楽しい夜だからこそ、そんなことを考えてしまう。ああ、もうすぐ隠居の身。過ぎたるは及ばざる如し、先人のいう通りだ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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