隠居たるもの、常に足元を気にかける。東京に戻って数日たった2023年1月19日、私は馴染みの日本橋KIZUカイロプラクティックANNEXで、私の身体の成り立ちを熟知するコンドーくんに骨盤をポキポキ矯正してもらっていた。世間話の一環で自ずと白馬にも話が及ぶ。「そうそう、向こうでね『滑り手の為のセルフケアワークショップ』っていうのを受けたんだ。ジャンプ台から道一本をはさんだ山小屋みたいなところでやってるんだよ。うん、つれあいがインスタかなんかで見つけてきてさ。1時間半たっぷりの時間をかけてくれるんだが、それがなんと一人2000円なんだぜ?」「ええっ⁉︎2000円すか?それは安いっすね、東京ではあり得ない…」こんな具合だ。ジャンプ台の向かいの山小屋に向かうとき、私たちは人ひとりがやっと通れる「林の中に設けられた一筋の獣道」そんな風情の雪道を使う。
この道を見つけてワクワクしたのは先の秋のことだった
散種荘から林を突っ切ってジャンプ台に最短距離で到達するこの林道を見つけたのは10月半ばのことだった。雪が積もる冬に歩ける状態であるのか半信半疑ではあったが、この道が使えるとすると八方尾根スキー場名木山ゲレンデまで徒歩で行き来するのもそれほど難儀なことでもないのではなかろうか。冬になって確かめてみると、人ひとり分だけの一筋がまるで「獣道」がごとく踏み固められている。初老にさしかかった夫婦は、日々のことであるから休憩を入れて2時間半も滑れば十分で、晴天・平日・朝一番、その三拍子がそろって意気揚々と八方尾根に出向いたときなど、11時を過ぎたあたりで「今日はこれまで」と潔く切り上げる。さてここで困る。散種荘に連れて帰ってくれるシャトルバスが動き出すまでにはまだ2時間もある。だからといってお大尽でもあるまいし、その度にタクシーを呼ぶのも気が引ける。ボードを抱えた上にゴツいスノーボードブーツを履いて45分も歩くとなると帰り着くころにはヘトヘトだ…。
その三拍子がそろった1月11日のこと、「先生!板が雪に刺さったぁ!」と元気な白馬北小の子供たちを微笑ましく横目に、上から一気に名木山ゲレンデの麓まで滑り降りてきたのはやはり11時過ぎ。陽気もいいことだし、私たちは意を決して、ジャンプ台を経由し「獣道」を伝って歩いて帰ってみることにした。練習中のジャンパーが空に飛んでいるのを眺めつつ静かな林に入る。白い息を吐きながら進む途中、その静寂を破って、緩やかに標高が高い向こうから「こんにちは!」とスキーヤーがクロスカントリーの要領で朗らかに滑ってくる。こちらも「こんにちは」と朗らかに応じて彼らに道をあける。これが東京だとイラつきながら「なんだ、あいつらは!」とめくじらを立てるに違いないが、それがどうして白馬だといささかも気にならない。歩きやすいのは踏み固められていたからではなく、彼らがスキーで圧雪してくれていたからなのだろう。さして疲れることもなく、散種荘には20分足らずで到着し、スパゲッティを茹でて昼食をとった。しばらくしたらまた「獣道」をたどってジャンプ台まで行くことになる。午後3時半から「滑り手の為のセルフケアワークショップ」が始まるからだ。
さっきまで滑っていたという講師は徹頭徹尾ゆるかった
私はコンドーくんにそのまま続けてワークショップの顛末を話している。「家を出てからすぐだったんだけど、つれあいが『あ!マスクを忘れた!』と途中で気づいて引き返したりしてね、遅れそうになったから私たちは少し急いで歩いたんだ。『会場はここのはず』って小屋にギリギリの時間に着くと、私たちと同じようにヨガマットを背負った女性がその前に手持ち無沙汰に突っ立ってんだ。『中には誰もいない』と言うんだよ。時間も過ぎたことだし、誘い合わせて中に入って待ってると、どうだろう30代後半から40ってとこかな、講師がマスクもつけず笑っちゃうくらい朗らかに、そして悪びれることもなく『遅れてすいません!みなさん、今日は滑りましたか?私はさっきまで滑ってました!』って現れたんだよ、乗鞍っていってたかな、あっちで整体院をやってるんだって」
「最初に足の指のストレッチをやったから靴下は脱いでいたんだけどね。その後に講師のアンちゃんが『このストレッチはタオルを使ってやります。タオルがない人は靴下で代用してもいいです。私は今日は靴下でやります。』ってこれまた笑っちゃうくらい朗らかに指導するんだ。私たちはタオルを持参していたよ。だって、持って来いって言われてたんだもの。あの日は風もないいい天気だったからなあ、楽しくなっちゃって仕事の準備をほったらかしてギリギリまで滑ってたんだろうなあ。セミナーはスクリーンに映写されたものを真似ながら進んでいくんだけどさ、『普段は終了後にこれをプリントしたものを参加者に渡しているんですが、すいません、今日はプリンターの調子が悪くてできませんでした。データで送りますんでメールアドレスを教えておいてください』ってまた笑っちゃうくらいに朗らかなんだ。言うまでもなく怪しいよなあ。ましてや『教えておいてください』って頼むわりに、紙もボールペンも持ってなくて参加者から借りてたしね。徹頭徹尾ゆるいんだ、しかしなんだかね、少しも憎めないんだなあ、白馬ではさ。東京でコンドーくんが同じことをしたとしたら、和足は間違いなく『ふざけんな』ってすごく怒るだろうな。でも考えてみれば、それで何か困るというわけでもないのにね。」
神茂のだしで肉じゃがを作る
「スノーボードで、前に置かれる脚と後ろに置かれる脚では使われる筋肉が違う」等々、滑り手が滑り手の為に教えるストレッチは実のところ的確だった。朗らかに終わって小屋を出てみるとすっかり夕暮れ時だ、「獣道」をとって返す私たちは家路を急ぐ。なのにその「獣道」で、散歩中の近所のホットワッフル屋さんの店長 まるとばったり出会す。「遊んで」オーラを躊躇なく出す「獣」が可愛く、散種荘に帰り着くころにはすっかり暗くなってしまった。メールを確認すると、すでに講師からデータが送られてきていた。風呂に入り、夕食をとる。賞味期限間近の日本橋のおでん種屋さん 神茂のだしの素を使い切って、地場のじゃがいもとアルプス牛でこしらえた肉じゃががその晩の品書きで、これがまた黙っていられないほどに美味しかった。
「あっちでつまらないことが気にならないのは、どうしてだろうかね、誰もがまずもって『楽しい』ってことを優先して暮らしていて、自然にそれを尊重する心持ちになるからだろうかね。」と話を続ける私に、コンドーくんは「うーん、背中が固い!。もっと背中のストレッチもしてください!」と朗らかに注文をつける。いくぶん身体が軽くなった私は、帰りがけに神茂に立ち寄って、白馬に持ち帰る新たな「神茂のだしの素」と、その晩のつまみにするためにはんぺんを買い求める。ああ、もうすぐ隠居の身。炙ってからサッとわさび醤油をかけるとこれがまた美味しいんだ。