隠居たるもの、大音量で想いを馳せる。2023年1月30日月曜日、稀代のギター弾き 鮎川誠の訃報が届いた。享年74歳、膵臓癌だったという。
たっぷり雪が降った直後の土日、私たちは混雑するスキー場を避けて、買い物やら家のまわりの雪かきやら、諸々の雑事に週末を充てていた。週が明けた月曜日の天気は「雪は降るけどそれほどひどくはならない」と予報された。ならば2日分のパウダースノーを取返そうと、はやる気持ちを抱えて岩岳ゴンドラ乗り場を終点とするシャトルバスに乗り込む。しかし天気予報はとんでもなく外れた。乾いた雪がひっきりなしに降り続き、滑るそばからパウダースノーが雪面に舞い降りる。これはこれで滅多に経験できることではない。「視界の確保」を優先し最も標高の低いスキー場を選択したことも功を奏した。この冬に新しくあつらえたスノーボードのポテンシャルを存分に味わいつくす。散種荘に帰ってみると、雪かきして出かけたはずのエントランスには新たに30センチの雪が積もっていた。あらためてスコップを振り回し、ようやく家の中に入る。訃報に接したのは、そうこうして晩にビールを飲み始めたころだった。
ノドのあたりがカラカラなんだ
「日本で最初のロッケンローラーは鮎川誠」、はたとそう気づいたのはいつだったろうか。欧米の流行の単なる模倣でもなければ浮ついたショービジネスでもない、猥雑な焦燥感も含め自身の中から湧き出るロックをそのまま鳴らした日本の第一世代、少なくともその中のトップランナーが彼であることは間違いなく、1948年生まれの彼を私は心の底から敬愛してきた。ジェフ・ベック、高橋幸宏に続く訃報、しかし実のところ鮎川誠のそれが私にはいちばんこたえた。散種荘には彼がギターを弾きまくるレコードが一枚だけ置いてある。サンハウスの「STREET NOISE」、未発表曲を集めて1980年にプレスされた作品だ。高橋幸宏が所属したYMOの2ndアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」(その表題曲でギターを弾いているのも鮎川誠)もあるにはあるが、この日ばかりは主役はギター、追悼の意を込めもちろん大音量でかける。1曲目「カラカラ」のイントロからしてとんでもない。私にとって鮎川誠といえば、アメリカのブルースシンガーの名前をそのままバンド名にして1970年に結成され78年に解散したサンハウスで、シーナ&ロケッツはその次だ。
だいたいこのレコードは、中学高校の同級生で、お寺の跡取りだったFの持ち物だった。43年前の当時、私はこれを、パンクロックをよく一緒に聴いていたFから貸してもらってカセットテープに落として聴いていた。その後このレコードはちょっとした小遣いが欲しかったFから、ジェフ・ベックの日本武道館公演にも同行したサッカー部の同級生Sの手に渡る。それを後生大事に持ち続けていたSから2年半前に、「もううちには再生するレコードプレイヤーもないからさ、白馬の完成祝いということであげるよ」と私が貰い受けた。収録されている「ぬすっと」という曲中に針飛びするほどのキズが一箇所あるが、それはそれで私たち同級生の43年に及ぶ物語といえば物語なのである。
2010年7月30日 フジロックでサンハウス
上の動画は、メジャーデビュー35周年を期して再結成されたサンハウスのライブ映像だ。彼らはその年のフジロックにも出演したので、幸いにもほぼ同じセットを私は目撃している。ヴォーカルの菊(こと柴山俊之)が「ロックの無頼」をがんばって主張するあまりにかえって強烈におじさん臭くて苦笑を禁じ得ない一方、このバンドを始めたころに手に入れずっと使い続けたトレードマークの黒いレスポールを、ワイルドにクールにニヤッと弾く、還暦を過ぎた鮎川誠のなんとカッコいいことか。私が高校生だったとき、「めんたいロック」と呼ばれてブームになった男くさい博多のロックバンドの一団がいた。THE MODSとかルースターズとか石橋凌のARB、はたまた陣内孝則が率いたザ・ロッカーズとかだ。その元祖にして頭目がサンハウスだった。
いつもやること同んなじ!
そのフジロックから遡ること2年半、青山のジャズクラブ Blue Note TOKYOで「KOOL SOLO」と題した鮎川誠のライブが2008年12月にブッキングされた。稀代のギター弾きがわざわざBlue Noteでやるというので、渋いブルースギターなど、今まで見せることのなかった側面を披露するかもしれないと、似たようなものを聴いて育ったつれあいの服飾学校同級生が誘ってくれた。私たちは酒をちびちび飲みながらボックス席で期待を高めて待っていた。たしか艶のあるスーツにサングラス、いつにも増してビシっとキメた鮎川誠がステージに上がる。そして彼は常と変わらない久留米訛りで叫ぶ。「いつもやること同んなじ!なんも変わらんし特別メニューなし!」私たちの期待は爽快にずっこけ大爆笑。「BATMAN THEME」から繰り広げられたBlue Noteのロッケンロールショー、最後に「今日のゲスト!」と呼び込んだのはなんと愛妻であるシーナでこれまた痛快に大爆笑。そこで演奏されたのはもちろん「レモンティー」で、この曲の元ネタがジェフ・ベック時代のヤードバース1965年の「Train Kept a Rollin’」であることを考えるとき、それはそれでこれも43年にも及ぶ物語といえば物語なのだろう。私たちのボックス席の脇を通り抜け、ステージにゆっくりとにじり寄ったシーナのおしろいと香水の匂いが今もゴージャスに想い起こされる。彼女もすでに2015年に、61歳で子宮頚がんで亡くなっている。
俺のあだ名はキングスネーク
「ノドのあたりがカラカラなんだ」と「カラカラ」を、「爆弾かかえて潜航中」と「爆弾」を、「俺のあだ名はキングスネーク」と「キングスネーク・ブルース」を、菊(こと柴山俊之)のドスのきいた声を真似て口ずさみながら、晴天に恵まれたこの両日のゲレンデを滑っていた。もちろんバックに流れるのは鮎川誠のギターだ。常と変わらないことをするうちショックも癒える。鮎川誠の父親は進駐軍の米兵だったそうだ。父親が転任する際、母親は誠少年と共に日本に残ることを選択し離れ離れになってしまったそうだ。実は後に九州大学を卒業する秀才でもある誠少年は、懸命にローマ字を覚えて、簡単な日本語を理解する父親にローマ字表記の日本語の手紙を書き送り、父親からもローマ字で記された日本語の返事をもらったりしていたそうだ。しかし一度も会ったことがないまま、誠少年が中学生の時、父親は死んでしまう。父親が家に残したフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードが誠少年に届く。こうして彼はアメリカンポピュラーミュージックと出会う。彼は後年、「僕らのロックへの思いって、個人的なイマジネーションの問題なんですよ」と語ったそうだ。居ても立っても居られない不穏な音をワイルドにクールに鳴らす、鮎川誠はそういうギター弾きだった。ああ、もうすぐ隠居の身。そして彼は「いつもやること同んなじ!」と笑っていた。
*諸々とWikipediaを参照しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/鮎川誠#cite_note-ugaya-1