隠居たるもの、うららの川辺で耳すます。2023年3月1日、前日からの風もやんだ東京は気温も高く、心が浮き立つような春の陽気に包まれた。いつもと変わらず昼前に少し離れたスーパーに散歩がてら買物に出向くに際しても、玄関そばの壁にかけたダウンジャケットはそのまま、クローゼットから薄手の上着を引っ張り出した。数日分の食材を買い求め、帰りがけ「かしこ」という人気のお弁当屋さんに少し寄り道するこのところの定例をなぞろうと、スーパーを出てからすぐの小名木川橋を渡っていたときのこと、欄干のそばで水面を眺めながら話に興じるご高齢の女性がお二方いらっしゃった。私がその脇を通り過ぎるのと、彼女たちが話を切り上げるタイミングがどうやら重なったようで、なんとも素敵な別れの挨拶が私の耳に入る。「それじゃあ、お互い長生きしましょうね!」
リアム・ギャラガーががなり立てる「Live Forever」
前日とうってかわって川の上を通る風が吹き荒んでもいない。久しぶりに顔を合わせたと思しきお二方は、朗らかで楽しそうだった。「お互い長生きしましょうね!」とおっしゃったのは、同素材の花をあしらった白いニット帽をすっぽりと被り、やはりコート然とした白っぽい服をまとってすらりと背筋を伸ばしていたご婦人の方だったと思う。瞬間的にわけもなく心持ちが軽くなる。そういえば、春の訪れを感じたついこの間の白馬で、同様に浮き立った心根から生きのいい音楽を聴きたくなるのか、私はオアシスのレコードを連日かけていた。とりわけリアム・ギャラガーががなり立てる「Live Forever」を、面白がって何度も何度も聞いていたのだった。
1994年にデビューしてからというもの、マンチェスターの労働者階級出身 ノエルとリアムのギャラガー兄弟が牽引するバンド オアシスは20世紀末を席巻した。兄ノエルのベタでありながらも卓越したソングライティングと弟リアムの唯一無二なカリスマ的ボーカル、そこに加えて抱腹絶倒のガラの悪さ。兄弟喧嘩の果て2009年には解散に至るのだが、全盛期と言えるのはあくまで90年代(もっとも売れた1995年発表の2ndアルバム「モーニング・グローリー」は全世界で売上枚数2500万枚を超えている。CDとレコードそれぞれで持っているから、私がそのうちの2枚を占めている)。春に誘われてか、その頃のオアシスが聴きたくなった。デビューアルバムに収録されている「Live Forever」はそんな彼らを象徴する曲だ。まるで落語に登場する乱暴な上に粗忽でガサツな若いもんのようなリアム、だから私は密かに彼のことを「リアのじ」なんて呼ぶこともある。その「リアのじ」が「いつまでも生き続けてやらあ〜♪」とがなり立てるのだ。いい歳になった今も、彼ら兄弟の仲の悪さはいささかも修復されず、ときおり届くニュースで相も変わらず笑わせてくれる。
先輩の訃報が届いたのは東京に帰ったばかりの2月25日のことだった
顔を出さねばならない集合住宅の寄り合いが2月25日土曜日の夕にあって、それに合わせて東京に戻ってきたのだけれど、その寄り合いが始まるなり私のスマホに訃報が届く。中学高校サッカー部7年上の先輩が亡くなったという。同じ時期に学校に通っていたわけではないものの、この先輩と私の間にはなんというか「紐帯」と呼ぶべきものが確かにあった。先輩は毎年「なんにも手伝いできなくて申し訳ないな。はい、これ」と言って、サッカー部OB会の世話役を務める私に3万円が入った祝儀袋を手渡してくださった。先輩が脱サラし青山学院大学の裏手で「hono hono」という名のバーを始めたと聞いたのは15年ほども前のことになろうか。義理立てしてとりあえず訪れてみた私は、その後も続いて店のお馴染みさんとなる。なんとも心地よくおしゃれで、「こんな音楽が聴きたい」と伝えると先輩がうなずいて選曲してくれる、そんな店だった。なのに10年ほど前、閉店後に一人残った深夜の店内で、先輩は大動脈解離に襲われる。一命は取り留めたもののそのまま過酷な闘病生活に入り、もちろん店は閉めざるを得なかった。そしてその先輩が、この25日の朝に65歳で亡くなったというのだ。「Live Forever」を聴く気にはなれなくなった。
先輩のご実家が五反田のお寺さんだったことを初めて知った。先輩のお兄さんがご住職を務めておられるこのお寺で葬儀は執り行われた。27日のお通夜にうかがったのだが、読経をされているお兄さんにどうも見覚えがある。「え?お兄さんって…」私たちの母校は秋に全卒業生対象の同窓会大会を催すのだが、その幹事は毎年各代が持ち回り合同で受け持つ。たとえば私が78回生だとして今年の受け持ちが末尾8の期だとすると、68回生・78回生・88回生・98回生あたりから何人かが集まって幹事団を形成する。前回の受け持ちのときに、つまり10学年違いのお兄さんと私は幹事としてともに働いていたのだ。確かに同じ苗字ではあるけれども、亡くなった先輩とこの先輩がご兄弟だったなんて少しも知らなかった。いっしょに参列しておられたサッカー部3年上の先輩が「そっくりだなあ…」ポツリと何度もつぶやく。過日、ご住職である先輩から「私は新撰組隊士の4代目の子孫なんだ」とご紹介いただき驚いたことを思い出す。ということは亡くなった先輩も新撰組隊士の末裔だったのか、少しも知らなかった。先輩の過酷な闘病生活を見守ったお兄さんは、かいつまんでその経緯を教えてくださった。やはり少しも知らなかった。
「お互い長生きしましょうね!」ってのは、つまり「Live Forever」
川っぺりを歩いてみると黄色い水仙が鮮やかに花開いていたり、木場公園をウォーキングしてみるといよいよ梅が咲き誇っていたり、そこかしこに春が来ている。白馬にこもる真冬の間はお休みとしていたスポーツジムも、月が変わってあらためて再開、2ヶ月ぶりにギックリバッタリやってみる。久しぶりのトレーニングにちょっとぐったりしていた帰りがけ、集合住宅のエントランスで、90歳になる当マンション長老の一人に呼び止められる。「運動かい?あたしはまだできるんだけど後輩たちがもうみんなゴルフをやめちゃってさ、一緒にやってくれる人もなかなかいなくてね。あたしはもっぱら歩くことくらいさ。でも歳だから日々にやらないとすぐに落ちちゃう、なんとか7000歩は歩こうとがんばってるよ。」とてもお元気なのである。何年も前に奥様に、最近に弟さんと妹さん両方にも先立たれているのに、なんというか「影」もなくシャキッとされているのである。「あたしにどうにかできるわけでもないことをどうこう言ったってね。たとえばさ、バスから降りるときにね、若い時と同じつもりでドンと足を地面につくと膝をやっちゃうんだよ。そうなんだ、できるところは用心しないといけないよ。うん、コーヒーくらいはいつだって用意できるからさ、たまには部屋に遊びにきてよ」そう言って、長老はいそいそと「用足し」に出かけていった。オアシスがまた聴きたくなった。小名木川橋の上のご婦人方もそうだ。彼女たちが交わしていた挨拶を英訳するならば。ああ、もうすぐ隠居の身。それは「Live Forever」ってことなんだと思う。