隠居たるもの、はらりと舞う雪を窓の外に眺むる。2026年2月8日、深川の庵の書斎に座り、朝になって本格的に降り出した雪の行方を追っている。「白馬で見慣れてはいるんだけど、ここが10階だからかな、雪の動きが違って見えるね」、つれあいは編み物をしながらそんなことを言う。確かにこの日に東京で降る雪は軽いのか、マンションにあたって吹き上げられる風にあおられた雪は素直に下に落ちてはいかず、上へ横へと浮遊しうちのベランダにも漂着する。つれあいはすでに期日前投票を済ませていることだし「下界はなんだか騒々しいばかり、今日はこのまま籠城するか」などと軽口を叩きながら暖かい部屋の中で静かに過ごしている。私は後輩となる政治経済学部の学生の卒業論文を読んでいた。論文のテーマは1960年代から80年代にかけての在日コリアン学生にまつわるもので、その当事者の一人としてインタビューに応えていたから、「このようにできあがりました」と前日の晩に催された出身大学同窓会の新年会の席でコピーを手渡されたのだ。そこで私は40年ほど前のことを嬉々と語っていた。

文学部1年ドイツ語Q組
冬は山にこもるシーズンなので、その合間を縫って東京に短期間だけ戻るとなると宴席が続くことがある。今回も御多分に洩れず。2月5日に山ごもり第3クールを終え、戻ってくるなり6日には古い友だちと高田馬場の飲み屋でテーブルを囲んでいた。古い友だちとは文学部1年ドイツ語Q組のクラスメートたちである。還暦の声が聞こえてきて、日々の暮らしの重心が仕事から離れてくると、どこからともなく「そうそう、あいつはどうしてるんだろう」という気持ちが湧いてくる。サークルやゼミを共にした仲間と交友が続くというのはよくある話、しかし「語学クラスの友だちと今もつるんでいる」てえのはあまり聞いたことがない。私たちの場合、聴く音楽の傾向がニッチで趣味があった4人組が大学入ってすぐに仲良くなって、ずっと疎遠となっていたけれど3年半ほど前にお互いまた連絡を取り合える環境が整って、一年に三度ほどそろって食事をしたり、全員いっしょにではないが声かけあって共にライブに足を運んだり、考えてみれば昔と変わらない遊び方が再開した、とまあこういうわけだ。その度にやはり「あいつはどうしてるんだろうな」と他のクラスメートが話題に上ったりする。ということで今回は、一人の友だちがFBで繋がっていた他のクラスメートを誘ってみたのだが、呼ばれた方はというと喜び勇んで駆けつけてくれた。どう勘定したってほぼ40年ぶりだ。

歴史を専攻していた彼は今も高校で世界史の先生をしている。文学部出身者の王道である。「結局あのマニアックなテーマで卒論を書いたんだっけ?」「資料が無さすぎて諦めた」とか、なぜそんな話が今になっても新鮮なんだろう「コンパのときに君がすごい吐き方したのを鮮明に憶えているんだよ(笑)」とか、ときたまうつむき加減に「しかしこの国はこれから先どうなっちまうんだろう」とか、他にも「息子が君の出身中学高校に入って通ってたんだ、しかもサッカー部。卒業した後にそのサッカー部OB会の総会開催通知が届いてね、よく見ると差出人は会長である君じゃないか、思わず『ああ、この人を知っている!』って言っちゃった」とか…。環境が大きく変わり少なからずドキドキしながら大学に通い始めた43年前のあのころ、まず知り合ったのは語学クラスの面々だ。考えてみれば「あのころのドキドキ」を共有できる者がこの級友たちの他にいないのは道理である。昔を思い出して二次会に安居酒屋 清龍にちょろっと立ち寄り、「それじゃあ、チケット取ってあるあのライブでな」「いやいや、それより前にあの映画をいっしょに観に行かないか?」などと言い合って私たちは別れた。のちにLINEに流れてきた各々の文面を見ると、誰もが調子に乗って少々飲みすぎたようだった。健康に留意して、メンバーを増やして、またやろう。

東京最古の焼肉屋で
翌2月7日、新宿は小田急ハルクの裏、東京で最古の焼肉屋とも言われている明月館で、私は所属し係も受け持っている同窓会の新年会に参加した。大学を同じくする者たちの集いといってもこちらは当然のこと同窓会なので、同級生だけでなくあらゆる年代の人、白髪の80代からまだ未成年で金髪の現役学生まで、年齢差60を超える一団が一緒くたになって肉を焼く。「今日はタダ飯を食べさせてもらいにきました!」と堂々と宣言する一人暮らしの学生もいれば(私たちの同窓会はかねてより現役学生はなにもかも無料。私も学生の時分は先輩たちに散々おごってもらった。この焼肉屋を経営しておられた今は亡き先輩にもずいぶんとお世話になった)、「おじさんたちはもうそんなに食えないんだよ、特に脂身の多い肉とかな、その分も食べたいだけ食べなさい!」と応じる先輩もいる。これだけの年齢差がありつつも、法事に集まった親戚ではないし、利害とヒエラルキーに支配された「職場」でもない。若い後輩たちも何度か顔を合わせるうちにいくらかなりとも遠慮がなくなってくる。そうとなると新しい風が吹き込まれ、丁々発止、会はより刺激的になる。二日にわたった都の西北宴席二連発、今の自分を構成するなにがしかがここいらへんで培われたことは疑いようがない。

夕暮れどき、ジュニアサッカースクールの帰りに河原をポテポテ歩く
なにも東京に戻ってきたのは宴席に顔を出すためだけではない。終えた決算に基づき週明けに法人税やら消費税を支払うことも予定しているのだが、それよりなにより重要なのは、メロン坊やが体験入学するFC東京ジュニアサッカースクールの付き添いおよびお迎えだ。今でこそJリーグ FC東京のホームは調布の味の素スタジアムであるが、そもそも母体となったチームは東京ガスであり、その練習場は江東区の深川グラウンドであった。今も年代別下部組織の練習とジュニアサッカースクールはここで行われている。サッカー部出身でしかもFC東京サポーターであるメロン坊やの父親が黙っているわけがない。保育園での親友が加入したのを契機に2月6日午後2時30分、ようやく体験入学にこぎつけた。ところがここで問題が出来する。テレビ局のジャーナリストである彼は唐突な解散総選挙のため仕事で身動きが取れない。母親である姪は姪で春から彼が通うことになる小学校の入学説明会に出席しなければならない。ここで白羽の矢を立てられたのがサッカー経験者に他ならない大叔父だ。

それにしても今節のガキときたらサッカーが上手い。中学に通うようになってサッカー部に入部し初めてインサイドキックを教わる半世紀前なぞまさしく「先史時代」である。まあメロン坊やはこの日がお初の体験入学だからそこまで上手くはないんだけれども、そして遊びの延長のように仕組まれている練習のルールが今ひとつ理解できず空回りする場面も2度ほどあったのだけれども、一所懸命に走って練習最後のゲームで見事ゴールをひとつ決めた。もちろんスタンディングオベーションだ。練習後にメロン坊やの親友が私のことを「この人は新しいお友だち?」と聞いてくる。私から「違うよ、大叔父だよ」と答えてみると親友は「オオオジっ⁇」と首を傾げる。「この子のお母さんの叔父さんなんだよ」と詳細をつけ加えてみる。すると「?」がさらに増幅する。それを見かねたメロン坊やがとうとう口を開く。「ボクが生まれたときからいっしょにいる人だよ」

FC東京の深川グラウンドから河原をポテポテ歩いて我が庵に向かっている。メロン坊やの父親は選挙直前で帰りが遅い。姪が5月には完全売却されてしまう我が庵で「夕食を共にしたい」という。私の足で15分くらいの距離だが、寸暇を惜しんでキョロキョロ興味の対象を探す幼な子を連れて歩けば小一時間はかかるだろう(実のところその通りだった)。しかしそういうのが得てして「満ち足りた時間」だったりするものだ。夕暮れどきに少しずつしか進まない私たちに、買い物を済ませてきたつれあいが追いついた。それから3人で肩を並べる。私はその後クラスメートとの会食のため高田馬場に向かったのだった。そして今日は選挙の日。ペテン師たちのお祭り騒ぎにつき合わされるのはほとほとうんざりなので明日までテレビはつけないことにした。ネットニュースも開かない。メロン坊やとポテポテ歩く夕暮れどきや、気心知れた友との語らいに支障のない世界であって欲しいと願うばかりだ。ああ、もうすぐ隠居の身。どう転んだところでその思いに変わりはない。