隠居たるもの、大過なくシーズンを打ち上げる。2026年3月31日、私たち夫婦はご近所さんとともに鴨鍋を囲んでいた。いくつかのスキー場が「GWまでオープン!」とうそぶく白馬界隈であるが、この冬の雪の少なさからしてそこまではどうにも厳しく、それどころか標高が高い山の上のコースですらすでに重くつんのめるようなコンディション、よってこの3月をもって私たちはシーズンをきれいさっぱり切り上げることにした。そこにもってきて鴨鍋である。そもそも馴染みであるNEO“和”食堂 一成の鴨鍋がとても美味しいからご近所さんとご一緒しようと従前より計画されていたのだが、このご近所さんというのがおうちcafe ほがらかという飲食店を経営されているご家族で、当然のこと白馬の飲食店は冬に繁忙を極めるから、てんてこ舞いも一段落するであろう3月末日を予約したのだった。考えてみれば夫婦で営む一成だってこの日がコース料理で臨む冬期営業の最終日、自ずと打ち上げという雰囲気が和やかに醸成されたのであった。

実は3月30日に否応なくシーズンは終了していた
3月31日の夜に催すささやかな「打ち上げ」、ようやくのこと年度末を切り抜けた中小企業よろしくなんとも微笑ましい。しかし私たち夫婦がシーズンを切り上げたのは実のところその前日である3月30日のことだった。簡単な話で「その日の夜半より雨が降り出し31日の夕方まで続く」と予報されたからだ。有終の美を飾るべき千秋楽が雨の中、というのはなんとも物悲しくていただけない。この3月30日をもって「シーズン40日滑る」という目標をぴったりと達成したことだし、47スキー場のベースに並ぶ屋外の麺屋で春うららのなか天ぷらうどん、「シーズン終盤に一度だけ」を恒例としているそんな季節の風物詩的ランチもギリギリ食したことだし、シーズンに思い残すこともなければこれ以上に欲張る必要もない。それにしてもこの天ぷらうどん、なんの変哲もない立ち食いうどんなんだけれども、長閑なこのシュチュエーションですするとこれがまたどうして、他にない美味しさなのである。

ゴンドラとリフトを乗り継いでまた山に上がって五竜スキー場に下りて、エスカルプラザ1階にあるチューンナップショップ 500MILESに、シーズンをともにしたボードをフルメンテナンスのため預ける。「あ、今シーズンは終わり?」と迎える店主に、「そう、雪もすっかり重くなっちゃったからね。もうやめとく」などと、一年に一度とはいえ毎年恒例の顧客となった私は応える。3月31日をもって運行終了となるシャトルバスの降りがけに「まだ明日もあるんだろうけど、雨が降るから私たちは今日が最後、また来シーズンもよろしくね」と声をかけ、ドライバーともどもお互い晴々と笑顔を交わす。預けてしまったボードの代わりに手にはヘルメットをぶら下げている。心もとなくなった頭髪の間をすり抜ける風が快い。停留所から散種荘に至る道すがら、ふきのとうやクロッカスが我が世の春を謳歌していた。


そして一成の鴨鍋
おうちcafe ほがらかを営むご近所さんととても懇意にさせていただいている。ここのハンバーガーが絶品で、お店に出向いたり、注文しておいてテイクアウトしたり、ことあるごとに頼りにしている。お店に席を占めバーガーをほおばるときなど世間話のついでに新しくできた店やお互いに知らない店の情報を交換することも多い。そんな中「うわ、それ美味しそう」「鴨猟が解禁されるのは秋から冬にかけてだからね、鴨鍋は冬期限定なんだよ」「酒飲みのお父さんも好きだしならば家族総出で出かけたいなあ」「よおし、じゃあシーズン滑り込みで一緒に行こうか」となったのが一成の鴨鍋だ。雨が弱くなったことをいいことに、私たち夫婦はひと足さきに出かけてこれまた今シーズン営業最終日となる日帰り温泉 郷の湯でひとっ風呂、満を持して打ち上げに臨んだのだった。

白馬に散種荘を構えてからというもの、冬に一成で鴨鍋をつつくのが私たち夫婦の楽しみのひとつになった。コロナ禍が明けてインバウンドさんが押し寄せ飲食店に入りづらくなってからも、ずいぶん先となる予約を確保してはシーズンに何度か足を運ぶ。概ねインバウンドさんが注文するのはわかりやすく「すき焼きコース」なのだが、日本食に通じた私たちが選ぶのは今時そうそうお目にかかることがない「鴨鍋コース」だ。


NEO“和”食堂 一成について白馬の萩ちゃんが教える記事:https://www.comforts.jp/gourmet/9630/


腕のいい料理人である店主がこしらえるコースは、お造りにしても天ぷらにしてもすべて申し分なく美味しいのだけれども、やはりここは鴨、刻一刻と濃くなる出汁がたまらない。そして締めは店主手打ちの蕎麦である。ここまで濃厚な鴨せいろには滅多にありつけない。私たち夫婦のそんな絶賛にほだされ今回ご一緒することとなったご近所さん、ぴたりとつけて配置されたテーブルで弾む話の様子から察するに、どうやらご満足いただけたに違いない。そしてほがらかお父さんに倣って初めて注文してみた蕎麦焼酎、これがまた鴨鍋にハマる。私たちが居を構えた別荘地の成り立ちをそこで長く暮らしてきたお父さんとお母さんからご教示いただき、八方で代々商売をしてきた家の跡取りである一成の夫婦からここいらに根を張ってきた方々の来歴を聞く。なんともいい夜になった。

もうひとつの打ち上げ
「打ち上げ」といった風情の会合が実はもうひとつ先立ってあった。近江八幡で暮らす大学時代の同期から「27日から、有給を使い果たすべく、姉と娘二人の4人で白馬に行く予定を立てました。雪はまだありますか?」と連絡があったのは3月21日のことだ。過度な期待はいけないけれども、まだなんとか滑ることはできる。五竜スキー場のエスカルプラザの前で28日のお昼に落ち合うことにした。「白馬 酒まつり」なるイベントが催されると聞きつけたからだ。


20枚のチケットに特製おちょこがひとつつくセットで2,500円。安曇野とか信州近隣の酒蔵がいくつか並ぶテントから、大吟醸やら純米やら飲んでみたい日本酒をチョイスする。チケット2枚やら3枚を各々の酒と引き換えおちょこに注いでもらう。そんなシステムだった。このイベントのために来場したと見受けたお客さんも多い。勘定してみるとチケット20枚であれこれ8杯ほど飲める。昼日中であるから2人あたりセットひとつを買い求め、もう1人はおちょこの代わりにプラカップをもらう。「しかし30年ほどの間ろくすっぽ会ってもいなかったのに、この一年くらいで4回も顔を合わせてるんだぜ?」などと笑い合いながらつまみもいくつかとりそろえ、娘さんたちも交え「留守番をしているやはり同期の旦那(父)が今この時どんな様子か」なんて話に興じる。あまりの陽射しに日焼け止めを塗りたくり過ぎて映画「国宝」の吉沢亮みたいになっていたお姉さんがおかしかった。解けつつある雪を眺めつつ、思いがけずにシーズンの終了を穏やかに噛み締める、1時間半ほどの素敵なイベントになった。来年も馳せ参じ特製おちょこをまたひとつ増やしてみようかと思う。とにかく近いうちにまた会おう。

東京の桜は散り始めていた
東京に戻ってきたのは雨模様の4月1日夕刻、翌2日に街を歩いてみると桜は散り始めていた。残念ながら今年は満開に立ち会えなかったようだが、私たちはこれからいよいよ引越しの本番を迎える。どこぞの愚か極まりない者たちが終わらせ方もわからないまま戦争をおっ始めてその愚かしさを日々満天にさらけ出しているさなか、なにかと物入りなところにとばっちりを食わないかハラハラするばかりだ。兎にも角にも。ああ、もうすぐ隠居の身。ひとつを打ち上げまたひとつのシーズンが始まったのである。