隠居たるもの、「男はつらいよ」でひとくさり。1969年から26年間で全48作、これだけの年月と作品数にわたったこのシリーズは、車一家の視点から捉えた民俗史であり、日本各地と女優の貴重なアーカイブでもある。引用すべきエピソードの宝庫だ。
てめえ、下町をネタにナンパしてんじゃねえよ。
チューハイが効いちゃったとおぼしき、歳の頃ならひと回りくらい下だろう、目がとろんとしたあんちゃんにからまれたことがある。牛もつ煮込みが有名で、繁盛しきりの江東区は森下、銘店「酒場 山利喜」でのことだ。かねてより「行ってみたい」とリクエストがあった勤め先の「きれいどころ」何人かを案内して早い時間から入店、ギネス黒ビールを飲みながら、玉子入り煮込みとガーリックトーストに舌鼓をうっていた。するとなにやら一触即発になってしまったのだ。
「男はつらいよ」を語る
「てめえらみてぇなきれいなカッコしたやつらが来るような店じゃねえんだ!あん!下町のことなんか何も知らねえくせに。」
「私は幼少のみぎりより隅田川のほとりでしか暮らしたことがなく、むしろエキスパートといっても差し支えないが?」
「何を!このヤロー。寅さん観たことあるのかよ!」
「すべて観ているし、浅草六区での正月ロードショーにも何度か足を運んでいる。」
「嘘をつけ!じゃあよ、寅さんの中でどの回が一番いいっていうんだ、お前は!」
「太地 喜和子が演ずる芸者ぼたんがマドンナの回であろう。宇野重吉も素晴らしかった。」
「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」
1976年公開 シリーズ17作https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie/17/、名作である。あんちゃんはしばらく黙って、すっかり角を落とした声で、腰が抜ける答えを返した。
「アニキ、あの回は最高っすよね!」
うらやましかったんだろう、混み入った男心なのだ。
フーテンの神通力
寅さんのおかげで流血の事態は回避できた。仕事で移動中のこと、京成押上駅の大きな壁面広告を目にして、そんな何年も前のことを想い出したものだ。もちろん、その時だって渥美清がこの世を去ってからずいぶん経っていた。八五郎だか熊さんだか、名前を聴くことはなかったが、あなたのおかげで迷える若いもんを導くことができた。フーテンの神通力…。ああ、もうすぐ隠居の身。あなたにここにいてほしい。
*2020年7月27日の追伸
この4月からBSテレビ東京で「土曜は寅さん」が再開した。第50作の発表を機に、過去作を4Kデジタルリマスターしたのをウリに公開順に放送しているのだ。先だっての「土曜は寅さん」が1976年公開、太地喜和子マドンナの第17作「寅次郎夕焼け小焼け」であった。シリーズを毎週1週間おき続けざまに観直しているからだろう、なぜこの回が好きなのかがわかった。
マドンナ龍野芸者ぼたんのきっぷの良さがなによりいい。妹と弟を養いながら必死に働いてきたそのぼたんが、こすっからいやつにコツコツと貯めた大金を騙し取られる。「自己責任」などという登場人物はおらず、みんなで歯を食いしばって「どうにかならねえのか」と一緒に悔しがる。「一つになる」とはこういうことだったんじゃなかったろうか。最後、寅ちゃんの情にほだされた日本画の大家 池ノ内青観(宇野重吉)がすべてを浄化する粋な計らいをぶっきらぼうに見せてどんでん返し。そして何を隠そう、この回で寅ちゃんはフラれない。「終」が大写しになって「ああ、本当に良かったなあ」と爽快感に包まれる。こんな「男はつらいよ」、実は他にない。