隠居たるもの、つらい別れがやりきれない。大学時代の同期が逝った。享年55歳、初めて会った時から数えると36年になる。よくないと聞き、先々週に2度見舞い、先週頭に「今週を超えられるかどうか」と連絡があり、そしてその晩の未明に息を引き取った。3年前にガンが見つかり、余命半年と宣告されながらも、不屈の魂で奇跡的な回復をしていたのに、「あれ、大丈夫なのか?」と思っていたのに…。残念だ…。さぞや無念だったろう。

濃密な数年間

私たちは同じ学校に通っていたわけではない。日本全国の大学を横断する会に属し、卒業するまでの数年間、苦楽を共にした。あの時代のこの国の学生からすると壮絶ともいえることをしていたので、苦楽を共にしたという表現はしっくりと馴染む。しかし、出身大学もバラバラで日本全国に散っているがゆえに、卒業後に顔を合わせることも次第になくなっていく。彼は神戸の大学を卒業し、それ以降は東京で仕事をしていたので、時々で遠くなったり近くなったりしながらも、縁は続いていた。

20年前ってなんだっけ?

見舞いに行くと、関西から見舞いに来た他の同期と二度とも鉢合った。入院している彼に付き添うパートナーもそもそも同期。「20年ぶりだね」という会話が二度とも交わされ、二度とも「20年前って、東京での君の(つまり私の)結婚披露パーティーだったな」と懐かしがった。他の日にも関西からの見舞客が来ていたと聞く。とるものもとりあえず遠方から見舞いにくる友人たちの、その心持ちを嬉しく思う。

われらは正義派だ。

7月1日の月曜日がお通夜、火曜日が告別式。見舞いには来れなかった者も含め、何人もが顔を合わせる。双方ともに参列する者も多かったので、故人を悼みながら、2日間ゆっくりと濃密な数年間を蘇らせた。お通夜の後も終電近くまで盃を交わしあったし、告別式の後も可能な者は焼肉をつまみながら、自分だけが知る逝ってしまった友のことを語り合った。そこでも「いつ以来だ?」「20年ぶりだな」「20年前ってなんだっけ?」「彼の(つまり私の)結婚披露パーティー以来だよ」と繰り返される。誰かが言った、「このテーブルにあいつがいるようだ」と。自然にそう感じられる。

We have grown,we have grown.

気丈にも喪主を務めていた彼の一人娘が、親戚の子供と話しながらふとニッコリ笑った。その表情を見つけた私ともう一人は「母親の若いころに本当にウリふたつだ」とハッとし、どういうわけか気分が少し晴れやかになった。「もう結婚式で集まることはない、ほっとくと葬儀でしか顔を合わせなくなるから、会えるときに会おうよ」と、そのもう一人が言う。「春風亭昇太に勇気づけられた。俺だって結婚するかもしれんよ」と、この場でただひとり独身の友人が口にする。みんな笑って突っ込む。そして、それぞれがそれぞれの場所に帰ってゆく。駅まで見送り、後期中齢者である古くからの友が、慣れない東京でオロオロしながら切符を買う姿を見るにつけ、愛おしさすら覚えた。

ジョン・レノンは歌った、(Just Like) Starting Over と。40歳で逝ったジョンは、もう永遠に私たちより年下だ。でも、“あいつ” はそこにいて、私たちとともに歳を重ねていくような気がしないでもない。もうすぐ隠居の身。まるで新しいスタートを切るように、また最初からやってみようよ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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