隠居たるもの、意気に感じて宗旨を変える。買い物に出向くスーパーを変えてみた。新型コロナ禍、この4月に主に利用するスーパーを鞍替えしているのだが(参照:「こちとら川っ子、『密』に倦んで遠巻きにする日々」https://inkyo-soon.com/sanmitsu/)、それから8ヶ月経ってより遠い店にウォーキングがてら通うことにした。先日またしても小名木川の東端を目指したウォーキングの帰り道でのことだ。ずいぶんと歩いたから買い物のために遠回りするのが億劫になって、庵への途上にある川のほとりのスーパーに浮気した。つれあいからリストを渡されることはもうない。タンパク質を中心に担当分野を任されているのだ。そうして肥えた「目」から見ると、こちらの方が品揃えが多様でなおかつものも良い。今日なぞは「ブルダック炒め麺」という即席麺まで買ってしまった。

いつか誰もがありのままに生きられる世界になるって?でも、そんなの待ってられないよ。

ナイキが11月28日から流している日本版CMビデオが話題になっている。ご覧になっただろうか。ナイキはこう紹介している。「アスリートのリアルな実体験に基づいたストーリー。 3人のサッカー少女が、スポーツを通して、日々の苦悩や葛藤を乗り越え、自分たちの未来を動かしつづける。You Can’t Stop Us.」乱暴に要約すると「同調圧力に苦悩するマイノリティの少女が、いじめや差別に晒されながらもサッカーを通して自己を解放する」というストーリー、「日本に存在する人種差別」を題材にした日本の広告史上画期的な作品である。まあ、常と変わらずインターネットの世界では勇ましい右曲りの方々が「反日」「日本をおとしめている」と騒ぎ立て「もうナイキは買わない」と息巻き、一応のところ「賛否両論」ということになっているようだ。

https://youtu.be/G02u6sN_sRc

ターゲットではない人を置いてきぼりにしながら社会は変わる

それについて省察しようと思い、いろいろと調べていたら遠藤結万という方の「人種差別を真っ向から描いたナイキのCMは、なぜ作られたか」(https://note.com/yumaendo/n/ne47e10c9dbc2)というnoteに行き当たった。私が語るまでもない。マーケターである遠藤さんの素晴らしい記事の方がより詳しく正確だから、そちらを参照してほしい。2018年、ナイキは「人種差別がまかり通るアメリカ」に抗議して国歌斉唱を拒否し、NFLを追放されたアメリカンフットボールプレイヤー コリン・キャパニックを、「トランプのアメリカ」にあるからこそ広告塔に起用する。「避けて通らない」それがナイキが信奉する大義というわけだ。それに際して、「もうNIKEは買わない」と怒り狂う人たちが当然にいたわけだが、ナイキのメッセージは至極はっきりしている。「そういう方々にはもう買っていただかなくて結構」。結果、驚異的な売上を叩き出したそうだ。それに続き「日本に存在する人種差別」に対する見解をナイキはこのCMで表明して見せた。怒り狂っている方々、ヤキモキする必要はないさ。ナイキはあなたたちをターゲットとは考えていない。遠藤さんはこう語る。「ターゲットではない人を置いてきぼりにしながら、社会は変わっていきます。」

https://note.com/yumaendo/n/ne47e10c9dbc2

スタンスミスは多分ずっと似合わない

「スタンスミスが奇跡的に似合わない」(https://inkyo-soon.com/stansmith/)このブログを始めたころの一段のタイトルである。アディダスのスタンスミスを生まれて初めて履こうと野望を燃やしたその省察の中で、キャラクターからして似合わず「いつか似合う日も来るさ」と捨て台詞を吐いている。サッカーを始めた43年前、ナイキはまだサッカー用品を作っておらず、私たちの憧れはアディダスだった。他の日本の製品と比べるととても高価で、当時はおいそれと買ってもらえなかった。その名残でスニーカーや運動着が必要とあらば、今もまずはアディダスで探してしまう。しかし、もうスタンスミスを試すこともないだろう。アディダス派からナイキ派に鞍替えするからだ。ぬるい「憧れ」から脱し、ナイキの「理念」を共有することにした。ナイキの今回のCMに怒っている人のコメントに「今のものを履きつぶしたらもうナイキは買わない!」とあった。いじましくて微笑ましい。そこまで怒っているなら「焼き討ち動画をアップする」くらいしたらどうだ?私はアディダスに恨みがあるわけではないから、今あるものを寿命まで使って必要に応じて順次ナイキに買い換えることにする。

手持ちのナイキ、ヨレヨレの2足。気に入って色違いをふたつ購入してしまい、とっかえひっかえしながら10年くらい履いている。

「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」

「多様性が尊重される寛容な社会」そうあって欲しいと考えている。果たして、私たちを取り巻く現況はどうであろうか。レイシストの事実無根のヘイトスピーチが「表現の自由」と放置されるなど「不寛容」な者たちにはずいぶんと「寛容」ではある。そもそも、日本学術会議会員の任命問題を持ち出すまでもなく、以前から「意に添わないならクビ」と平気でうそぶく「不寛容の親玉」が総理大臣だ。ドイツのメルケル首相は、3月のテレビ演説で「開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです」と語った。かたや「不寛容の親玉」は、国営放送NHKの放送で「説明できないことってあるでしょ」と怖い顔してすごむ。つまり「お前たちに説明する必要はない」と言い渡しているわけだ。「理念」があるのかどうかも判然としない。カール・ポパーというイギリスの哲学者がいた。彼は1902年にオーストリアのウィーンで生まれたユダヤ系だ。なんとかナチスを逃れ、第二次世界大戦後にロンドンに落ち着く。1945年に発表された名著「開かれた社会とその敵」にある警句は今も色あせない。「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」ああ、もうすぐ隠居の身。私はNIKEに鞍替えすることにした。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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