隠居たるもの、昼の日中に近所を歩く。「ステイホーム」が「人流を抑制」に置き換えられて久しい昨今である。今のところは幸いなこと勤めに出なければならないわけでもないから、東京にいるとき大概は深川の庵にいる。とはいえ戦々恐々と閉じこもっているだけにもいかない。買い物に出向いたり、陽光を浴びて身体を動かしたりしなければならない。そうした用事であるから、なにも朝な夕なに出張る必要もない。日が十分に高くなってその上に傾き始めないころを見計らって外に出る。つまり昼日中だ。当然のことご高齢の方々と鉢合うことが多くなる。
「江東区役所に怒鳴り込んでやったんだよ」
2021年5月14日のことだった。下に降りるエレベーターに乗り込むと上階からの先客がいらした。集合住宅の古参の方だ。手にゴミ袋を下げている。「いくつになるんだっけ?ああそうだっけ、まだ若いもんな。ワクチンはまだだね。いやあ、とんでもないんだよ」と大先輩はまくしたてる。私は「80歳を越えてどれくらいになるのだっけかしら?PCも使いこなしてらしたはずだ」と大先輩の話に耳を傾ける。「先週に始まったワクチン予約、パソコンでも電話でも全然つながらなかったんだ。その度に『混み合っているから後で出直せ』という画面になったりアナウンスが流れたりする。仕方がないからそうしてみるんだけど、夜遅くでもずうっと同じだ。そんな話があるかと思ってね、区役所の総合案内に問い合わせたら『あっという間に予約は埋まってしまいました』というじゃないか。だったら『今回の分は終了しました』だろう、なんで『後から出直せ』なんだ!不安があおられちゃっていつまでもやめられないじゃないか!怒鳴り込んでやったんだよ。ワクチンの数が少ないのは江東区のせいじゃないが、まったくなってない。」心中をお察しする。
「一人暮らしの母親の友達を全部うちに集めてまとめて予約してあげたんです。」
集合住宅に暮らす古参の女性ふたりがマスク越しに前の道ばたで井戸端会議をしてらした。挨拶を交わしたあと、ふたりはすぐに会議に戻る。「できるわけないじゃない!」やはりワクチン予約の話題らしい。電話はつながらないし、だからといってPCなんか今さら使いこなせない。集合住宅内で懇意にしているいくらか年下の友人からこんな話を聞いた。同居している「うちの母親にできるわけないじゃないですか。だから、予約が再開する日に、一人暮らししている母親の友達も『みんな接種券もってうちにおいで』って呼んでね、姉とふたりがかりで全員の予約をなんとか取ったんですよ。」「自助」を待たずしてていきなり「共助」、なんとも頼もしい。江東区の高齢者人口(65歳以上)は112,835人(2021年1月1日現在)、今のところ「公助」の話は聞こえてこない。
「あなたは多分アストラゼネカじゃないでしょうかね」
私はいささか血圧が高いので、ひと月に一度、近所のかかりつけ医院に出向いて血圧を下げる薬をもらう。以前に登場願ったスキー好きの先生だ。年齢を聞いたことはないが、私より十くらい上なのではないかと睨んでいる。たまたまその日、他に待っている患者さんもいなかったからいつも以上に雑談に時間を割いた。先生の医院は6月以降にワクチンの個別接種を始める。私は聞く。「順番が回ってきたら、先生のとこに頼めばいいんでしょ?」先生は答える。
「ええ、それでいいんですが、あなたにワクチンが回ってくるのはまだまだ先のことでしょう。私は江東区の集団接種会場にも打ちに行くのですが、その私ですら2回目のワクチンを打ってもらったのがようやく一昨日の5月17日のことでした。(同じ江東区の)砂町に友人の先生がいて、その人も集団接種会場に打ちに行くのですが、その人はまだ1回目の接種すらしてもらえていません。うちの看護師たちは1回だけ、問診をする薬剤師たちはまだ1回も…。そんなですから、江東区の高齢者の2回接種を7月に終わらせるのも難しいでしょう。だから、重い基礎疾患があるわけでもないあなたに回ってくるのはまだまだずっと先のことです。」そりゃあそうですな。待合室に患者さんがいらした気配がしたから、私たちはそそくさと血圧を測る。「あ、そうだ。先生、こちらでワクチン接種をしてもらうとして、それはどちらのワクチンになるんですか?」先生は苦笑いして答える。
「ハハハ、あなたは多分アストラゼネカじゃないでしょうかね。認可もしていないのにたくさん契約しちゃったからどこかで誰かに使わなければなりません。重い基礎疾患があるわけでもないし、中年の男性で副反応に注意しなければならない対象でもない。あなたのようなリスクの低い人に使うんじゃないでしょうか。」なるほど…。「仕方ありませんな。うら若き乙女でもないのだし、こちとら血栓ができることもないでしょう。」看護師さんが笑いを堪えていた。先生とそんなやり取りをした2日後の今日5月21日、24日から始まる東京・大阪の大規模接種を直前にして、モデルナとアストラゼネカのワクチンはようやくのこと承認された。
江東区には多くのオリンピック会場がある
5月20日のお昼過ぎ、木場公園をウォーキングしていた。するとカラス2羽が後ろに飛び退いてはまた前に出てきて騒がしく威嚇し合っている。よくよく見て驚いた。そいつらは喧嘩しているわけではなかった。真ん中にトグロを巻いて「シャー!」って牙を剥き出している蛇がいる。あのトグロの具合をみると、巻きつかれたらカラスもひとたまりもなかろう。最後はカラスが逃げていった。昨年の6月上旬のこと、ほぼ1年前にも目の前をのたくる蛇を江東区で目撃したっけ。「蛇は吉兆」というが、然るべきことがあるといい。ああ、もうすぐ隠居の身。多くのオリンピック会場を抱える江東区の昼日中をプラプラして思う。