隠居たるもの、労働の中に喜びを見る。先月2021年6月16日から、ひと月ほどのスポットアルバイトに勤しむ私である。仕事は中学生の全国テストの国語の採点、残り期間わずかとなり佳境に入っている。「ヒト」を介す必要がない選択問題は業務に含まれておらず、そこそこの大人数で読解記述問題をよってたかって採点する。突拍子もない解答に出くわし、日々に「頭の体操」をしている次第だ。ときおりツボに入ってしまい、笑いを堪えるのに苦労することもある。身体をプルプル震わせながら、衝立を隔てたすぐ隣のブースで静かに仕事をしている若い同僚に申し訳なく思うこともしばしばだ。7月9日午後6時15分頃だったろうか、過去最大級の衝撃はやってきた。パソコンで漫然と開いた次の答案、「指っち能力」という言葉がそこにあった。
「指っち能力」??? それって「ゆびっちのうりょく」??
その子は解答欄に、主人公の「指っち能力」を賞賛する論を展開していた。???…。はてさて「指っち能力」とは如何なるものか。それがわからないことには採点の進めようがない。そもそも「ゆびっちのうりょく」と読むのだろうか。文学部に進学し、読解力にかけてはいささかの自信を持つ私であるが、そのような言葉を聞いたことがない。はたして若い子の間に生まれた新語であろうか。業務中スマホはロッカーにしまうよう義務づけられているから調べようもない。試しに「指」を「ゆび」ではなく違う読み方にして考えてみる。例えば「しっちのうりょく」、あるいは「さっちのうりょく」…。あ!文脈からして間違いない、「さっちのうりょく」つまりは「察知能力」だ。漢字がわからず、とりあえず知っている字をがんばってあてがったのだろう。それにしても、やられた…。私は悶絶した。腹を抱えて笑い転げたい衝動に必死に耐えた。その分、身体の震えをしばらくの間とめることができなかった。中学生恐るべし、死ぬかと思った。「元のことばがわかる誤字・脱字は大目に見る」というルールに従って、私は正解としておいた。「指知能力」と書かれていたら、この子の真意に私は辿り着けなかった。「っち」がひらがなで残っていたことが決め手だったのだ。この子と私のシンクロニシティである。
健気な努力の果てに「奇跡の答案」は生まれる
その日は大学の先輩たちとよもやま話をLINEでやりとりしていたのだが、休憩中に愛すべき「指っち能力」について伝えると、先輩から即座に返信があった。そこには短く「腹、痛い、、」と記されていた。数ある答案の中には反抗的だったりウケ狙いのものもある。相応の動機があるだろうところに申し訳ないが、その大概は浅はかに思えてつまらない。「バイト料のためにいちいち目を通すこちらのことも考えやがれ」と腹が立つこともごく稀で、事務的にバツをつけて次に移る。奇跡のような答案は、答えがにわかに頭に浮かばないんだけど「うーん、なんとか解答欄を埋めなければ…」と頭を抱えて重ねられる中学生の健気な努力の果てに生まれる。そこには「普段は使わない『漢字熟語的』な言葉を駆使してどうにか『高尚に』見せよう」というイタイケに背伸びする愛おしい意図が散りばめらていることが多い。「指っち能力」の後、同日に「念密」という言葉も登場した。おそらく「綿密」で間違いなかったと思う。この子に「壇蜜」お姉さんはどう見えるんだろうか。
中学生の名解答に救われた夜
7月9日その日、私は朝からトグロを巻く憤怒にとりつかれていた。その晩に結局は撤回されたとはいえ、西村康稔経済再生担当大臣(巷間では経済破壊担当大臣と囁かれている)のあの発言だ。要約すると「金融機関と酒類卸業者は、酒を出している飲食店を見つけて締め上げろ」とのたまった。仮にも民主主義を標榜している国の主要閣僚が「相互監視と密告および脅迫と迫害」を公然と奨励し、法律的根拠もないまま民主主義の根幹を蹂躙しようというのだ。検査の拡充など新型コロナ感染対策なにひとつ形にしてこなかった政府が、その結果やむにやまれず酒類提供に踏み切らざるを得ないほどに追いつめられた飲食店への取り締まりそれすら「同じ下々のもの」で手を下せ、というのだ。そんなことが許されていいのか?東大出(しかも灘高から)のこの馬鹿は自分が口にしたことの意味がわかっているのか?・・・「指っち能力」が、そんないかつくなった肩を「まあまあ」となだめてくれた。この子の答案に出会わなければ、その日の私は一日ニコリともせず憤怒に凝り固まったまま眠れない夜を抱え込んだことだろう。
ヤングマン、さあ立ち上がれよ
夜のシフトを入れていたその日、「できたら残業して欲しい」と望まれ、「残業」という言葉も懐かしく、午後9時まで働いた。ぐずついていた空はなんとか持ち堪えそうだから、頭の緊張をほぐすためにも歩いて帰宅する。いつものように、相棒スマホiggyに伴奏音楽のセレクトは一任だ。そしたらiggyはまたしてもやってくれる。42年前1979年発表の大ヒット曲、今は亡き西城秀樹の「ヤングマン」。当時、私たちは中学3年生だった。京都を修学旅行中の旅館の一室、小さなテレビから流れる「ザ・ベストテン」、星条旗衣装で歌う西城秀樹を見ながら友人がはしゃいで「 Y・M・C・A!」とポーズをとっていたことを想い出す。本格的にパンクロックを聴き始めた当時中三の私は、ニヤニヤしながら斜に構えてそれを眺めていたっけ…。川沿いを歩きながら「指っち能力」を思い出してまた吹き出してしまい、小さく「 そうさ Y・M・C・A」とポーズをとる私であった。ああ、もうすぐ隠居の身。ヤングマン、さあ立ち上がれよ!