隠居たるもの、とうとう現地の土を踏みしめる。いまだ県境をまたぐ不要不急の移動を自粛するよう要請される日々である。だがしかし、必要火急の所用が県境をふたつまたいだ向こうで出来(しゅったい)した。どうにも行かないわけにはいかないのだ。先週の6月4日にひと月半ぶりに地下鉄に乗ったばかりだというのに、今日は今日とてまたしても新宿から特急電車に乗る。新宿から出る特急電車といえば、言わずと知れた中央線特急「あずさ2号」。しかしながらJR東日本てぇのは無粋なもので、「8時ちょうどのあずさ2号」は現在ダイヤから消滅している。私が乗り込んだのはなにを隠そう「8時ちょうどのあずさ5号」12号車であった。
8時ちょうどのあずさ5号
長野県松本が終点の「あずさ」であるが、1日に1本だけ大糸線に乗り入れて北安曇郡の南小谷(みなみおたり)まで延びる便がある。それが「8時ちょうどのあずさ5号」だ。目的地は、松本からさらに1時間揺られた終点ひとつ手前の白馬。「山の家プロジェクト」がようよう音を立てて動き始める。最初の工程である伐採抜根を終え、現地は整地されたという。ここから先の工事は私とつれあいの検分と承認がないと進められないから、今週中に手をつけたい松本の現場監督に請われて車中の人となった。自家用車を持たない身である。白馬に至る現実的な路線は「長野まで新幹線でそこからバス(もしくはレンタカー)」「バスタ新宿から直行バス」、そしてこの「あずさ5号」。料金、所用時間、乗換え、身体への負担、それに加えて予想される「密」の度合い、これら5点を勘案して、今回は「あずさ5号」をチョイスした。現地でゆっくり観光するわけにもいかないから当然に日帰り、帰りは同様に新宿まで直通の「あずさ46号」である。
3時間41分はさほど長くない
朝7時に庵を立ち、都営地下鉄新宿線の混み具合にいささか慄(おのの)きながらも「そりゃあ日々耐えてらっしゃる方々がいるんだ」とシンパシーを覚え、新宿駅9番線に降り立ったのが7時40分、あずさ5号はすでにホームで待機していた。朝食の駅弁「鮭ハラコめし」を購入して指定された座席につく。かつての「特急あずさ」と比べてリュニューアルされた全席指定の車両は快適で、なおかつ(このご時世であるからだろうが)乗客もまばらである。甲府を抜けて山深い信濃路へ、松本を過ぎた頃には12号車の乗客は私たち夫婦のみとなった。本を読んだりうとうとしたり車中をウロウロしたり、3時間と41分かかりながらも空いていて直通なのがなんとも気安い。白馬三山にたっぷりと雪が残る白馬駅に降り立った時、静寂を破ってカッコウが私たちを迎えてくれた。
よりによって今日の白馬は30度を超えていた
まずは腹ごしらえ、白馬は蕎麦がうまい。かつての「塩の道」、駅前の千国街道沿いに店を構える松庵(https://shoan.shinshudining.com/)に入って、ケレン味のない蕎麦を食す。梅雨入り直前の今日ばかりは白馬も30度を超えている。冷たい蕎麦がすごぶる美味しい。
今日の散歩コースはここ白馬ということにして、松庵から現地まで緩やかに登る3キロほどを歩く。3ヶ月も散髪しておらずボサボサになった頭の先から汗が滴り落ちる。今が盛りとカエルが鳴いている。観光客はほとんどいない。最後にやってきた時からもう1年と3ヶ月くらい経っているだろうか、インバウンドさんに向けたものと思われる新しい建物がいくつもできていた。私たちはこれからだ。
散種荘はここに建つ!
帰りの「あずさ46号」の車中でこれを記している。掘り起こされた石が転がる現地で、1時間半の打ち合わせの後、私たちはハンコをついた。伐採抜根をしてくれた地元の業者さんとも顔を合わせた。いい感じにくだけたおじさんだった。完成後にいくらかの造園をお願いするやもしれぬ。先頃の省察「2年目に差し掛かって『もうすぐ隠居』を再定義する」(https://inkyo-soon.com/redefinition/)で申し上げたように、この「山の家」を散種荘と命名したい。新型コロナ禍で危ぶむ気持ちもあったが、紅葉が始まる前にはなんとかなりそうだ。そう、自前のシェルター 散種荘はここに建つ。来月にも行くことになろう次回の検分の際には、1泊くらいして温泉でゆっくりしたいものだ。ああ、もう直ぐ隠居の身。もう止まらないんだ。