隠居たるもの、雷に脅され目を覚ます。歳を重ねると、就寝中にトイレに起きてしまうことはもはや珍しいことでもなく、むしろ日常的ルーティーンと言って過言でない。寝床に戻ってそのまま健やかに再びの眠りにつけるときもあれば、「到底まだ起きる時間じゃないぜ」と意地を張って強引に目をつぶっているだけのときもある。今日2022年8月4日の明け方はそのどちらにも当てはまらない。毛布にくるまり直ってうつらうつらしたまま、遠いのか果たして近いのか、断続的に轟き渡る雷鳴にずっとおののき続けていたからだ。ようやく寝床から起き出て7時過ぎ、雨が降る庭に目をやると、色づいてパンパンに蕾を膨らませていた桔梗が、水を滴らせ可憐に花を開かせていた。
新型コロナ第7波の「余波」
仕事を辞してからというもの、電話がかかってくることがめっきり減った。そしてかかってくるとなると大概は登録されていない先からだった。(懇意にしている方々とのやりとりがメールやLINEなどに置き換わったからに違いない)7月13日の夕刻もそうだった。はてさて誰だろう、出てみると私の身体の成り立ちを熟知しているカイロプラクティックの担当者だった。「明後日のご予約の件でご連絡を差し上げました。あのお、私、濃厚接触者になってしまったんです。PCR検査はこれからなので自分が陽性なのかどうかはまだわからないんですけど、どちらにしろ心配がなくなるまでお客様対応をするわけにはまいりませんので、申し訳ありません、いったんキャンセルさせてください」私は翌週から白馬へ夏休みに出てしまうのだが、どうにもしようがない。「くれぐれも気をつけたまえ」と予約をほぼひと月先に延期した。考えてみれば、私にとってこれが新型コロナ第7波から生ずる「余波」の端緒となった。ほどなくして東京都の新規陽性者数は日々に3万人を超えるようになる。
桔梗がなに食わぬ顔して花ひらく
「桔梗の季節に産まれ、それにあやかって名前をつけられた子がまた散種荘に遊びに来るんだ。ありがてえ、感心にもこいつはその日に合わせて蕾を膨らませてやがる」なんて庭の隅で日に日に蕾を大きくする桔梗を愛でていた。この夏、散種荘は一週に一組、来客を迎えることになっていた。だがしかし、私が白馬入りした7月21日から勘定して今日からは三週目、来訪の取りやめが引き続き、次週まで含めても結局はここまでで一組だけとなった。キャンセルの理由も「残念ながらコロナを用心して控える」というより「『コロナ陽性』が身近に及んだので今回はあきらめる」と表現した方が実情に近い。幸いなこと今のところ私たち夫婦は第7波に飲まれてはいない。しかしながら今回ばかりはひたひたと「余波」を感じている。ニュースに触れるにつけ相変わらずの無能ぶりでキャパシティを整えられず検査を行き届かすことができていないようだから、実のところの新規陽性者数はきっと発表の2倍くらいに膨らんでいるんじゃなかろうかと勘ぐってもいる。桔梗の季節に産まれた子も土壇場で来ないことになった。蕾は待ちきれず、雨の日にポッカリと開いた。
木流川散策路
「木流川あたりかなあ。子供たちが虫取り網を持って出かけるのは…」白馬の酵母パン koubo-nikkiの店主につれあいが教えてもらっていた。今のところ3人の姪孫のうち2人は男の子、来るべき彼らの「昆虫時代」に備えて「カブトムシ・クワガタ」スポットをリサーチしていたのだ。「きながしがわ」と読むのだそうだ。地図で確かめると普段に利用するスーパーのすぐ裏に散策路が伸びている。買い物のついでに足を踏み入れてみて驚いた。この村からすれば市街地にほど近いこんなところにほぼ手つかずの森が残っている…。鬱蒼としていて、マイナスイオンに溢れ、足元も落ち葉でフカフカ。つい「ここはいるぞぉ!」と色めきたつと、つれあいが看板を指差して注意する。そこには「クマ注意!」と記されていた。そしてどこからかメスのカブトムシが飛来し、啓示を与えるかのように私たちのすぐ目の前の木にとまる。やっぱりここにはいるのだ。どれだけ人間が右往左往したところで、本来の自然からすれば、新型コロナ第7波などそもそも眼中にない。
もはやすっかり「山のおじさん」
先ほども雷鳴が轟いた。昨日から雨がちとなっているここ白馬、今日8月4日の最高気温は26.0℃・最低気温20.8℃だ(私がいつも参照するtenki.jpによる)。こちらに来てから2週間というもの、ここ白馬といえどほとんどの日で、陽が高い数時間は30℃を少し超えた。(しかしそんな日でも朝晩はやはり20℃ほどに気温が落ちるから窓を閉め切って寝ないと風邪をひく。)ほぼ半袖半ズボンで過ごしている私は、もともと地黒だったところにもってきてすっかりと焼けてしまい、黒々とした「山のおじさん」に変貌を遂げた。これでこそ夏休みである。
昆虫や動物そして私たち、さまざまな要素が織りなす動きの交錯が散種荘の庭のかたちをつくりだしている。回廊の軒下では無情にもクツワムシ(かな?怖くて近づけないから確証が持てない)が蜘蛛の餌食となり、風格をまとったトノサマバッタが飛翔のタイミングを待ち、幼いキリギリスが私の手に乗り、そしてひょっこり現れたナナフシにつぶらな瞳でじっと見つめられる。姪孫たちよ、君たちにあやかって、あらためてやってきた「昆虫時代」に私も胸を躍らせている。とはいえ、これからの天気予報を見るかぎり、30℃を超える日はもう白馬にやってきそうにないから、いっしょに楽しむのは君たちがより成長する来年にしておこうか。ああ、もうすぐ隠居の身。その夏の課題図書は「ファーブル昆虫記」だ。