隠居たるもの、パワポ資料に懐旧の情を抱く。2024年10月22日火曜日、午前11時16分に到着する中学高校の同級生 ハーモニカのT師匠を迎えに、私たち夫婦はレンタカーで信濃大町駅に向かっていた。信州の山間といえども秋は順調には深まっておらず、例年であればとっくに冠雪しているはずの山の頂もどうにも間抜けでしまりがない。やれやれといった風情でタクシーの運転手さんが「朝からグッと冷え込んだおかげで今日からかろうじて山が紅くなり始めた」と教えてくれたのは2日前のこと。刻一刻と色づく山をぬって車を走らせる。特急電車ひとつ手前の駅で待ち合わせたのは、3年に一度の北アルプス国際芸術祭の会期もそろそろ終わり、大町市に点在する出品作品をドライブがてらいくつか一緒に巡ろう、そんな趣向あってのことだった。
「恋人の聖地」、スポンサーは桂由美
信濃大町のソウルフードと称される俵屋飯店でラーメンをすすり、北アルプス国際芸術祭を象徴する「目」という作品を観に鷹狩山の山頂まで、このところの馴染みの愛車、走行距離16万kmのマーチで登る。パールピンクのご高齢な車には傾斜がきつい山道はいささか荷が重いようで、息を切らすかの如くエンジン音が一定しない。その辛さが理解できるほどに大人になった還暦凸凹の3人組、無闇にアクセルを踏み込み叱咤するなど嗜みのないことはしない。道が枝分かれするたび登場する「恋人の聖地 ☞」という標識に、「ここに限ったことじゃあないけれど、観光地あるあるってぇやつだ、ここはまた何をデッチ上げたもんかねえ」などとのんきにツッコミを入れる。
使われなくなった古い建物を「歴史」もろとも石膏で覆いつくしたとしても、「額縁」として残した窓からは、かえって北アルプスの「かけがえのない情景」が否応なく立ち返る。これで三度目の鑑賞となるこの「目」という作品、本当に素晴らしい。しみじみと感動して後にしようとすると、気づけば「恋人の聖地」はそこにあった。「しょうがないねぇ」と早々に立ち去ろうとする私たち夫婦に対し、T師匠はタタッと階段を下りて解説を読み耽る。連なる山の形がハートに見えなくもないここで恋人たちに愛の告白を促す魂胆だろうが、戻ってきた彼に聞いてみると、なんとスポンサーはウエディングドレスデザイナー桂由美(今年4月に94歳で没)と記されているそうだ。身も蓋もなく、まったくもってはしたない。
私見による屋外アート作品の観方
そもそもアート作品というのは大きく「絵画」と「彫刻」にざっくり分けられる。たとえば写真は「絵画」の潮流であるし、立体的な造形物はすべからく「彫刻」だ。だから屋外のアート作品というのは概ね彫刻ということになるのだが、今さらミケランジェロを超えるものを作るのは難しいし、仮に作ったとしても模倣しているようにしか見えなければ面白くない。現代アートはそこに「主張」を練り込む。台湾出身の作家 ヨウ・ウェンフーが八坂公民館を竹でぐるりと囲み込んだ「竹の波」、山間にポツンと現れるモダンな建物を、まるでイスラムの古代遺跡のような姿に変えた。間近で見ると、こいつはどうやっても機械ではできそうにない。手間のかかる制作過程、地元住民と時間をかけて協働したのだという。竹の間に吹く風は古代であろうと現代であろうと変わりない、結局は人と人が力を合わせて作りそれが記憶となって蓄積する。世界のあちこちで頭のおかしい人たちが人の命もろともそうしたものを吹き飛ばしている昨今、この作品はそういうことを想起させる。
木崎湖畔に佇む神社の鎮守の森に現れたケイトリン・RC・ブラウン&ウェイン・ギャレットの「ささやきは嵐の目のなかに」も素晴らしかった。約2万個の度付きレンズを吊り下げてこしらえたそうだが、雨粒を模したレンズに囲まれたサークルの中に入り湖と森を眺めやる、私たちは雨つまりは水の循環とともに生きている、はしたない人でない限り自ずとそれが腑に落ちる。
中綱湖のほとりの作品は正直なところ拍子抜けだった。しかし金属の造形物のテッペンを見上げて確認しているT師匠の様子が、自分を迎えにくるUFOを密かに心待ちにしているようでなんともおかしい。さあ、散種荘に帰って日本橋 神茂のおでんを食そう。
T師匠が熱心に日本酒の蘊蓄を語る
なかなか順調に秋が深まらないとはいっても、日が落ちれば10℃そこそことなる白馬である。いくらかでも薪ストーブを焚かなければ底冷えしてうすら寒い。「そろそろ季節」とばかり、日本橋 神茂のおでんを取り寄せた。「お宅探訪」に際してめっぽう気を遣うT師匠には、あらかじめ「日本酒を持ってきて」とリクエストしていた。一家言あるようだし選択の負担も軽減されるだろうと考えてのことだ。温泉から帰ってきて、切り干し大根をつまみにビールを飲みながらおでんが煮えるのを待ち、はんぺん一枚が炙り上がる頃合いに、T師匠が厳選した日本酒に切り替える。「まずは辛口からだな」と上機嫌な私をよそに、T師匠がリュックサックからなにやらゴソゴソ取り出す。「一般的に辛口というけど、その基準はお酒に含まれる糖分の量を数値化した日本酒度によっていたり、実は曖昧なんだ」と、わざわざこの晩のために自作したパワーポイントの資料を私たち夫婦に手渡す。どうやら蘊蓄野郎(笑)に火をつけてしまったようだ。特別講義「日本酒入門」の始まりである。
勤め先を辞して4年と3ヶ月、紙に印刷したパワーポイント資料をめくるなぞいつ以来となろうか。「これ、製本までしてあるけど会社のプリンターで?」と尋ねる私に、「ペーパーレス化が進んだから急いで使いたがるやつなんかもういなくて、会社のプリンターはいつだって空いてるんだ」とT師匠は涼しい顔。「ガタガタいうやつもいないの?」という質問にも、「還暦の誕生日を迎える来年の3月に僕も定年退職だからね、そんな上司にいちいち文句言ってくるやつなんかもいない」とこれまたどこ吹く風。米 x 水 x 酵母の組み合わせや生産工程によって繊細に味が変わる日本酒の芳醇な世界をきちんと知ってほしいのだという。笑っちゃうほどに蘊蓄野郎である。そりゃあ鷹狩山の胡散臭い「恋人の聖地」をせっかくだからとわざわざチェックするはずだ。
ようやく紅葉が進む
夜の間ずっと降っていた雨は、朝になっていったん上がったものの、午後からまた激しくなるという。雲が厚くて山に上がったところで見晴らしも良くないし、随分と飲んだから頭も身体もいくぶん重い。ゆっくり起きて、せいぜい近場の散歩に出かけ紅くなった山に感嘆したり、T師匠から本分であるハーモニカの練習指針をちょこっと教わったり、午前中はそうやってタラタラと過ごす。しかし、白馬駅午後3時16分発あずさ46号に乗ってT師匠は東京に帰る。さあ、蕎麦でも食べに行って、ちょっとした温泉にでもゆっくりつかりに行こうか。
夕方の雷はすごかった。あずさ46号は倒木の影響で途中45分遅れながらも、無事に東京に着いたそうだ。私たち夫婦には決まりごとがある。神茂のおでんを食した翌日の夜、残った出汁で肉じゃがを作るのである。そしてA–COOPの棚に並ぶアルプス牛の切り落としがこれまたこの出汁にとびきり合うのだ。T師匠が持参してくれた日本酒2本もすっかり美味しく飲み干した。ああ、もうすぐ隠居の身。初老たち 蘊蓄もちよる 秋の宵。