隠居たるもの、肩の痛みに過ぎし日を想う。2024年3月15日、馴染みのない品川で私はいささかうろたえていた。顔を出さねばならない寄合の開始時間が迫っていたからである。「わかりにくいからね」と忠告されていた店のありかは確かにわかりにくく、ならば用心して時間に余裕を持てばいいものを、庵で書き上げようとしたこのブログの前段「死ね死ね団の巻」に少しばかり手間取り、出立するのがそもそもギリギリになってしまったのだ。カッコ悪いこと数分遅刻してようやく会場に着いたところ、同級生たちは皆すでに着席し、プリントされたアジェンダを手に議事を進行させていた。そう、この日は「合同還暦祝い実行委員会」、その記念すべき第一回目だったのである。

我々同級生のための同級生による同級生の「合同還暦祝い」実行委員会

あらためて経緯を紹介するため、同級生との忘年会について昨年12月にこのブログに書いた文章をそのまま引用しよう。「私たちは1964年の4月から1965年の3月までに生まれ(法的には1965年4月1日生まれも同学年ではある)、今現在すでに59歳もしくは近いうちに59歳になる。(中略)46年前に同じ男子校に入学した私たちは、あと4ヶ月もしたら順次に還暦を迎える。その同級生みながほぼ還暦となり、まだ61歳になる者が出ない再来年の3月末に、学年全体に呼びかけて「我々同級生のための、同級生による、同級生の『合同還暦祝い』(仮)」をやろうじゃないか、卒業30周年といって声をかけた10年前は100人を超える同級生が集まったんだ、全員集合だ!お互いがお互いを盛大に祝い合おうじゃないか、私たちは紹興酒を飲みながらそう約束したのだった。」

その実行委員会に、品川の高層マンションに住まっている同級生がいて、会を終えたあとに「せっかくだからうちのマンションの展望階に登ってみる?」と招いてくれた。我々が通った中学高校は東京タワーのお膝元、違った角度からであろうが見えようものならどうしたって肩を寄せ合いそちらの方角に雁首をそろえる。そしてこんな話をしていた。「もう死んじゃったやつもいるし、どうやっても連絡先をたどれないやつもいる。そして『あの頃のことを思い出したくない!』ってやつもけっこういる。残念だけど同級生300人すべてそろうってわけにいかないよな」「うん、子どもだったから配慮も足りなければ悪ノリもした。それほど深く考えもせず軽い気持ちでやっていた『からかい』が、『忘れがたい仕打ち』として耐え難く積み重なっていたやつがいてもそれは少しも不思議でない。今になってようやくわかる。だとしたら本当に申し訳なく思う。出て来てくれて『俺はあの時のことを忘れていないぞ』と言ってくれるなら、やぶさかどころでないさ、真剣に謝るよ。まあ、出て来てはくれないだろうが…」そんな苦い思いも共有しながら、私たちは来年の3月末に150名で集うことを目標とした。

同級生との語らい第二章

「そういえば君んとこの息子、大学出てあのテレビ局に就職したんだろ?そこはほら、うちの姪と結婚したサッカー部の後輩が勤めるテレビ局でもある。どの番組?え?前は朝の情報番組?じゃあ同じ番組のスタッフだったのか?」確かめてみると、若い二人は本当に同じ番組に携わった同僚で、父親と義理の叔父が同級生であることにそれぞれ驚いていた。ここに登場する4人はすべて同じ中学高校出身で、「息子」以外の3人は大学までいっしょだ。「腐れ縁」でもなければ「輪廻転生」してるわけでもないが、熟成が進んだどうにも形容のしがたい縁ではある。その他の同級生とも各々そうやって熟成が進むからには2次会におよんだ品川の路地裏でこんな会話にもなる。「昨年末から右肩の神経痛がきついんだ。首からくるやつさ。よくなったかと思うとぶり返す。今またすごく痛い。困っちゃってな。スノーボードシーズンもそろそろ終わりだしジム通いを再開したんだけど、三角筋あたりを使って両腕を開くトレーニングをしてみると力も入らない。どうしたもんだろうか」あのころソフィー・マルソーが好きだった同級生が応じる。「18日の月曜日にでもブロック注射してやるからうちに来いよ」

名古屋麻酔科クリニックのHPから引用させていただきました:
https://nagoyamasui.com/肩甲上神経ブロック

肩甲上神経ブロック注射

そこそこ長い針がついた注射器を、肩甲骨の真上から射し込み、肩甲骨の上部まで至らせ、そこに麻酔を注入し、上腕を支配する神経をなだめ、血行を回復させるのだそうだ。聞くだに痛そうだから「痛くねえのか?」と確認すると「痛くないよ」と答える。その代わり「気をつけの姿勢で座ってじっとしてろよ。むやみに身体を傾けたりすると針が肺に刺さるからな」と物騒なことを言う。「ああ、お前に注射をしてもらうなんて俺も落ちぶれたもんだぜ」なんて深く考えもせず減らず口を叩くと、「へへへ」と笑いながらも「働いているスタッフたちに聞こえるだろうが」と背後から圧をかけてくる。ペインクリニックを経営するベテランの医師となった同級生、場数が違うからかさすがに注射が上手い。少しも痛くなかった。彼と私が友だちになったのは今から遡ること46年前、クラス替えを経て中学2年になってすぐのことだった。

ことさら風の強い日に中山に出向く

彼と私はあっという間に仲良くなり、毎日毎朝ちちくりあうように中学2年特有のくだらない会話に興じた。彼は私の家に泊まりがけで遊びに来た初めての友だちとなった。私が初めて泊まりがけで遊びにいったのも、彼の千葉県市川の家だった。彼はJR下総中山駅と京成中山駅の近くで開業するお医者さんの息子だった。下町のがらっぱちがそのお宅の様子に感服したのはいうまでもない。しかし私たちが20代半ばだったとき、お父さんが亡くなって彼は大変だった。いったん閉めざるを得なかった病院を再開にこぎつけるまでに10年と少しの歳月を要した。私たち同級生は37歳になっていた。金融機関に勤めていた同級生が融資に力を貸したとも聞く。それからまた22年を経た私たちは、病院内でお互いにボソボソと減らず口を叩き合いながら、片方は神経痛に痛む肩を差し出し、片方はそこに注射針を突き立てる。

こちとら日々にプラプラしている身分である。無闇に乗り換えて電車賃を費やしたくはない。行きはJR総武線だけに乗るつもりでウォーキングがてら錦糸町まで歩いた。おりからの強風でダイヤが乱れ、寒風吹きすさぶホームで10分以上待たされた。「地下鉄ならそんなひどい目にも遭うまい」と、帰りは都営新宿線 本八幡駅まで千葉街道を伝って歩くことにした。そうすればやはり一本で帰れる。「彼のクリニックはどこにあるの?え?中山?中学から高校までの私のテリトリーじゃないの」、出がけにつれあいが嬉しそうにそう突っ込んできたことも頭をよぎる。小学生の時に熊本から中山に引っ越してきた彼女はここで思春期を過ごしたのだった。しかしとんでもない強風が感慨に浸るすきすら与えてくれない。真間川にさしかかるころにはすっかり途方に暮れていた。彼は「痛みが完全にとれるまでには時間がかかる」と言った。次回は、青砥の美容院で同級生ヤスの娘に髪を切ってもらったあと、京成中山駅へと立ち寄ろうかと思う。ああ、もうすぐ隠居の身。私たちはこうして還暦を迎えるのだ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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