隠居たるもの、普請のはかどりを確かめる。白馬で断続的に新年4日まで降り続いた雪は、1月5日にぴたりとやんだ。夜中にいくらかチラホラすることはあったが、それからの数日というもの概して風もない穏やかな晴天が続く。となると喜び勇んで岩岳スノーフィールドへ繰り出し「これでもか」という絶景を眺めやり爽快に風を切る。しかしそんな私にはある心配事があった。それがリフトに乗ってのんびり陽光を浴びるとフッと思い起こされる。「散種荘の屋根雪がゆるんで落ちてきてはいないだろうか」…。
ニホンカモシカが不思議そうにじっと
スノーボード(スキーも同じだが)というレジャーはのんきなもので、各々のスピード感に委ねて斜面を滑降した後は、誰もが等しくのんびりリフトに身を任せる。連日、ほぼ同じ位置で「特別天然記念物」ニホンカモシカが、リフトに運ばれるそんな私たちを不思議そうにじっと見つめていた。「何をしてるんだろう、何が面白いんだろう」そんな顔をしていた。そりゃあ雪まじりの風に吹きつけられたリフトに座り、身を縮こめてなるべく「思考」を閉ざしたことだってある。あまりに寒くて「なんでこんなことやってるんだろう…」という身も蓋もない考えに行き着く恐れがあるからだ。しかし「北風と太陽」だ。たくさんの雪が降ったばかりでなおかつ穏やかな晴天、こんな絶好のコンディションはシーズンを通してそうそうになく、私たちはリフト上でも心身を伸ばし、実は何が面白いのかはよくわからないまま「至福の時」を味わっている。そこに「そういえば、こんなに太陽に照らされちまうと…」と心配事が射しこんでくるのである。
家内の薪ストーブからもじっくりと
それに屋根雪をとかすのはなにも陽光だけではない。2022年1月4日午後3時50分に到着して以来、2階のトイレに通じる水道管で凍りついた氷のつぶをたった一昼夜でとかすほどに、ときにエアコンの力を借り、概ね薪ストーブをガンガンと焚き、そこに炊事の火が加勢し、家内を暖めているのだ。その暖気は屋根雪にとっては床暖房に他ならない。前段「都会育ちのもやしっ子は今でもいちいちうろたえる」において別荘地管理事務所の担当さんが心配したように、いつ落ちてもおかしくない条件は整っていた。それなのに屋根雪はズリズリしながら往生際悪く8日いっぱいもった。その晩、白馬にいらした出身大学の先輩と「せっかくだから」とまたしても一成の鴨鍋をご一緒する。一回りほど年の差がある先輩と私は、いつもとは場も変わったからだろうか、冒頭からつんのめるように会話に夢中になった。そして屋根雪がしがみつく散種荘に帰り、薪ストーブの前でウイスキーをなめながら、スウィートな青江三奈を聴いた。翌日の9日に東京に戻る。今回の滞在中には落ちないのかもしれない。
あちこちで雪崩が起きているようにドスンと
8時を過ぎる時分からこの日も晴れ、ゆっくりと食事をとっていた9日の朝のこと。「ドスン」と音がして、散種荘が少し揺れた。氷柱もろとも東側の屋根雪の一部が落ちた。もとから下に積もっていた雪に、氷柱がえぐった鋭く深い跡が残っている。「揺れた?」「揺れた…」と夫婦が慄いていると、西側の屋根雪からも「ドン、ドン」と落ちる。いったん回廊の小さな屋根に落下してから着地するぶん反響音が異なるのだ。気がついたように周囲の建物や樹木に積もった雪がそれに続く。あっちでも「ドスン」、こっちでも「ドン」…。あたり一帯がうずたかい雪に取り囲まれる。つれあいはやおらウェアを羽織ってスコップを手に持ち外に出てゆく。テラスになだれ込んできた雪塊を片づけ、そして何やら意図のありそうな造作を始めた。
慣れない土木工事に身体はじんわりと
この冬のうちに遊びに来るであろう姪孫のために「滑り台」を作るのだそうだ。雪を豊富に手に入れたこの日、まずは踏み固めて階段の基礎をこしらえておこうと算段したらしい。ここから雪ゾリに乗った姪孫が外に滑り出し、ぐるっと回って回廊の端っこを終点とし、そこからテラスに上がってまた階段にたどり着く。エンドレスに嬌声が上がることだろう。キリのいいところまで仕上がったというので、軽い昼食を取り、私たちは予定通り3連休の中日に散種荘を後にした。暖気が充満する高い層の屋根雪はすっかり落ちていたが、低い層と物置の屋根雪はまだすっかり残っている。「東京にいる間に管理事務所の担当さんからなんらかの連絡があるだろう」私たちはそんなことを話しながら白馬駅に歩いて向かう。その間にも「ドスン」という音をあちこちから何度も聞いた。電車に乗るころ「慣れないところを使ったからかな、筋肉痛になりそう…」とつれあいの眉毛が八の字になった。
落ちるとなると屋根雪はあっさりと
今日1月10日午前中、管理事務所の担当さんから写真が添付された「屋根雪が落雪いたしました。いかがいたしますか?」とのメールが届いた。ものの見事に埋まっている。近いうちとは思ったが、たった一日とは。それにしても雪囲いの威力は甚大だ。そして、この雪が落ちる瞬間に立ち会いたかったような、その時にそこにいなくて良かったような…。どちらにしろ、ズボラに放置して建物自体を「天然冷蔵庫」にしておいて結露が猛威をふるうといけない。「慶應義塾大学の創設者を二枚」ということで手を打ち、テラスから向こうの一面を残した上で、いったん建物の三方を取り囲む雪すべて処理してもらうことにした。なぜテラスから向こうだけ残すのか。ああ、もうすぐ隠居の身。「姪孫の滑り台」を完成させるため大量の雪がいるからだ。