隠居たるもの、ギリギリ鋭くエッジを立てる。2022年2月9日、まごうことなき晴天の白馬、天気予報はぴたりとあたった。となれば組んでいた予定の通り、私たちはいそいそ八方尾根スキー場へと足を運ぶ。シーズンリフト券を購入し、さんざっぱら滑った昨冬のメインゲレンデ。そこで私たちなりに得た結論がある。白馬、いや日本を代表するこのスキー場を存分に楽しむには、焦れることなく「三拍子」がそろうときを待たなければならない。どれひとつ欠けても必ずや欲求不満が残る。それすなわち、晴天、平日、そして朝イチ。得られる愉悦は他の追随を許さない。
おじいさんが「ストォッップ!」と大声を張り上げる
朝一番、8時ちょっとのシャトルバスに乗る。8時20分には八方尾根スキー場名木山ゲレンデに到着する。あらためて身支度を整えリフトに身をまかせる。上空を眺めやり「待ってろよ、リーゼンスラローム」と朝っぱらからアドレナリンを上げる。すると後方から、おじいさんが絞り出したと思しき「ストォッップ!」という大きなしわがれ声が聴こえてくる。ほどなくしてリフトはガクンと停止。振り返ってみると、乗り場から少し上がったところでスキー板を片足だけ履いたおじいさんが揺れている。スキー板のもう片っ方は外れて雪の中に落っこちていた。
スキー板は幸いに係の若者がかろうじて取りに行けるところに落ちていた。しかし落とし主がすでに高みに達してしまっていて、それを受け渡すことができない。おじいさんは「後ろの人に預けておいて!」とこともなげに指示を下す。だけれども、アドレナリン上げつつ朝イチでリフトに乗るなり「ということですんで、あのおじいさんに渡してください」と他人のスキー板片っ方をゆだねられ、降り口に至るまで後生大事にしばらく抱える羽目になる後ろの人からすれば、唐突でなんとも面食らう話だ。急停止してフラフラ揺れるリフトの上、私とつれあいはそんな顛末を見届け涙をにじませクスクス笑った。そんな私たちの真下にも、落ちたばかりのストックの片割れが浅く雪に埋まっている。圧倒的にスキーヤー好みな八方尾根スキー場である。シャトルバスにも危なっかしい足取りで乗り込んできた方がいらしたし、平日はご高齢の先輩がたが押し寄せる。肝心のスキーやストックを落としたり、自然と滲み出るとぼけた味が微笑ましい。しかしどうして、雪の上でスキー板に乗るやいなや、矍鑠(かくしゃく)とはこのこととばかりシャキッとするからこれがどうにも侮れない。
リーゼンスラロームは昼ともなるとそこもかしこも掘り返される
1947年から続く歴史を持ち、中学生から79歳までがエントリー可能な八方尾根リーゼンスラローム大会、この冬は2月24・25日に開催されるそうだ。リーゼンスラロームとは、長野オリンピック アルペンスキーのコースともなった全長3kmにも及ぶこのスキー場の代名詞。スリリングな斜度といい、自在に進路がとれるその幅といい、他所に並ぶものが早々に見当たらない素晴らしいコースだ。猛者たちは圧雪されまっさらになった朝一番のここを目指す。誰もがギリギリとエッジをたて鋭いターンをきめ、高速で一気に滑降する。大会にエントリーしているのか、惚れ惚れする技量の人もいる。本番に向けて日々に鍛錬を怠らないご高齢の方もいらっしゃるのだろう。邪魔にならないよう私たちも血相変えて一気呵成に落ちていく。これがまたとんでもなく爽快なのだ。
しかし、そんな風に猛者たちが深く深く雪を掘りかえすものだから、10時になるころにはリーゼンスラロームの雪面はすでに怪しい。12時にもなればすっかり開墾されている。昼飯どきを過ぎるともはや高速で滑降するのは不可能、御しがたい凸凹の斜面に変わり果てる。となると距離が長いだけに厄介だ。あの素晴らしい斜面は翌早朝の圧雪を待たなければ帰ってこない。だから八方尾根スキー場は朝イチでないといけない。前の晩に夜遅くまで遊んでいたのか、10時を過ぎたあたりに固まってワラワラとやってくる若い一群をよく見受けるが、そういう者たちは往々にしてみな初級者でパーパー騒がしかったりする。小僧たち、心がけを変えねば八方尾根で上達することなんざできないぜ。だってそうだろう?美味しいところはとっくに食べ尽くされているんだ。
おじいさんが「いつもありがとう」とお礼を言う
「三拍子」がそろえば八方尾根に限らずどんなスキー場もこの上なく楽しい。しかし他所はどれかが欠けてもどうにかする余地がある。八方尾根はそうはいかない。リーゼンスラロームのように朝一番から激しく「耕される」コースなど他のスキー場では見たことがない。またここは標高が高く、リーゼンスラロームの起点となるうさぎ平のそれは1400mである。ここから頂上に至る上方と、しばらく下る急斜面、このあたりがスキー場の花形だ。天候に恵まれないとこの一帯はすっぽり雲の中に入ってしまう。だからといってふもとのコースはつまらない。つまり逃げ場がない。そして白馬を代表するスキー場であるがゆえに、上手下手が押し寄せ混雑する休日の午後ともなれば、手厳しくなったコースのあちらこちらで阿鼻叫喚ばかりが繰り広げられる…。
私たちは通常、10時にはリーゼンスラロームを切り上げ、休憩をはさんで他のコースで遊ぶ。そして最後に凸凹になったリーゼンスラロームを注意深く降りてお昼に出る帰りのシャトルバスを待つ。この日も常と変わらず「昼食は何にしようか」などと語り合いシャトルバス乗り場で佇んでいた。簡便なロータリーになっているそこに一般のワンボックスカーが入ってくる。綺麗な群青色のヘルメットとウェアを身につけた男性が「いつもありがとう」とその車に乗り込む。聞こえてきた声は明らかに“おじいさん“のものだった。あの方はリーゼンスラローム大会に出場する猛者に違いない。運転していた女性はおそらく同居している息子のお嫁さんと推察したのだが、「うちのおじいちゃん、リフトに乗っけてくれさえすればあとはひとりで大丈夫ですから」などと預けたデイサービスからピックアップするかのようだった。ああ、もうすぐ隠居の身。目指すべき先達たちがここにいる。