隠居たるもの、春に誘われラテンの音色に身をまかす。2025年4月5日の日暮どき、私は川に沿って歩を進めている。小名木川の遊歩道から隅田川テラス、清洲橋で隅田川を渡った先は中央区、目指すは人形町のサロンゴカフェ。そこでひかりんだ☆のライブが催される。地下鉄を使うとなると清澄白河からひと駅だけ乗って水天宮で降りればいいのだが、こちとら還暦も過ぎた初老の身、うっかりしていると筋肉と代謝能力が同時並行的になすすべなく減退し、その一方で財布の中身は恒常的に軽いまま。だから桜を見物がてら、3kmと少しを歩き一挙両得とばかり電車賃を浮かす。穏やかに揺れる水面を眺めながら「そういえば」と想い起こす。ひかりんだ☆の片割れ、山本ひかりさんの弾き語りに初めて接したのはこの小名木川に浮かぶ屋形船でのことだった。

あれは6年と5ヶ月前、2018年11月11日11時発の屋形船
はてさて何年前のことだったろうか。秋であったし船上で写真も撮った。コロナ禍以前であることも間違いない。スマホを立ち上げ肝心の写真を探してみる。手がかりもそろっているしアプリケーションをいくらかスクロールするだけであっさり判明、あれは6年と5ヶ月前、2018年11月11日日曜日のことだった。私たちが暮らす江東区深川界隈の活性化に熱心に取り組む友だちが近所にいて、彼はあのころ屋形船のオーナーとともに、運河と川が縦横に走るこの地で水運でなにかできないか、それを模索しているところだった。その一環で船上ライブが企画され、何組かのミュージシャンが招かれ週末に何便かが運行されることになった。「浮世の義理てえやつだ、まるっきり顔を見せないわけにもいくまい」、そう考えた私たち夫婦は、たしか天気予報なぞも参照しつつ、何便かの中から「この娘がよさそうだよ」と山本ひかりさんの回を選んだのだった。

「あんた、船ほんとに大丈夫?」とつれあいにただされた記憶があるから、その日の私は前の晩の酒がいささか残っていたのだろう。とはいえ気持ちのいい秋晴れだ、二日酔いを理由におめおめ好天の船遊びを返上したんじゃあ酒飲みの名折れ、「心配ご無用」とばかり私は乗り込むなり迎え酒にハートランドビールを注文した(ようだ、緑の瓶を手にした写真があるので)。船は午前11時過ぎに高橋の船着場からゆっくりと滑り出し、新小名木川水門をくぐって隅田川に至る。水上を心持ちよくそよそよと風が流れ、ひかりさんのきれいな声が船内にころころと転がり、船の外に目をやれば川面の高さからすっくと屹立するスカイツリー、なかなかに得難い充足した体験だった。

船を降りたあと私たちはFacebookで友だちとなり、そうこうするうち同じ大学の同じ学部の同じ学科の先輩後輩であることが判然とし、その縁でコロナ禍をはさみ一度ずつ、二度にわたって私が幹事を仰せつかっている大学同窓会のパーティーで演奏をしてもらい、そのうちこちらからライブにも足を運ぼうと思っていたのになかなかタイミングが合わず、やっとのこと産休前最後のライブに帳尻が合った、とまあこういうわけだ。そしてあのときに船が辿った経路を陸路でなぞりつつ、水天宮の脇を抜けて、私は人形町サロンゴカフェに向かっている。

サロンゴカフェでは善福寺川渡ことヌノちゃんが待っていた
当初は文学部ドイツ語Q組同級生の友だちと行くつもりで二席を予約していたのだけれど、その友だちからずいぶん前に「ごめん、都合が合わなくなっちゃって…」と連絡があった。その穴を快く埋めてくれたのが勤めに出ていたころの同僚であり、昨年10月に「デビューアルバム発売記念ライブ」を満員の原宿クロコダイルで大成功させた善福寺川渡ことヌノちゃんである。そこに「行けそうなんだけど、まだ席あるかな?この季節に人形町でボサノヴァとか、なんか素敵そうだからさ」と、映画監督を生業とするやはり文学部ドイツ語Q組同級生の別の友だちが加わった。東京国際映画祭で三冠(作品賞、監督賞、主演男優賞)、香港で開催されたアジア・フィルム・アワード2025で監督賞、そうした栄冠を獲得しつつ大ヒットした最新作「敵」、年明けからのロードショーがそろそろ一段落したのだろう。そもそも山本ひかりさんと彼は、時代は違えど学生時代に映画サークルに在籍していた。同じところではないのだけれど、互いに意識し合うようなそれぞれに学内では名前の通ったサークルだ。つまりこの二人、初対面ではあるが、同じ大学の同じ学部の同じ映画系サークルの先輩後輩、なのである。同じ年恰好のこんなオヤジ3人が、奥のテーブルにそろって座り旧交と新交を温める。

桜の季節にひかりんだ☆
ひかりんだ☆は、山本ひかりさんとRINDA☆さん、二人のユニットだ。当日のライブ評については私よりミュージシャンである善福寺川渡ことヌノちゃんの方が適任、彼のFacebookからそのまま引用させていただく。
「ひかりんださん、ギター&歌のひかりさんがご隠居の後輩さんなんだそうですが、歌もギターも最高
ギター始めて12年なんだそうですが、めちゃ凄い・・・40年以上やってて立つ瀬ない
パンデイロ他パーカッション、鍵盤ハーモニカそして歌のリンダさん
パンデイロって凄いですね
私もワークショップ行ってみようかな?2人のリズムのキメがズバズバ決まって2人で奏でてると思えないグルーヴ、いやー素晴らしい
また観たい良いライヴでした
」
「もうすぐ隠居の身」であってまだ「隠居の身」ではないのだが、彼は私のことを「ご隠居」と呼ぶのである😅まあ、そんな瑣末なことはどうでもいいとして、6年と5ヶ月前の屋形船を想起し私も思う。たしかにギターがとても上手になっているし、オリジナル曲もすっかり洗練されている。立派なもんだなぁとつくづく感心する。


*ひかりんだ☆、二人のそれぞれのサイト。動画も掲載されています。RINDA☆MUSIC:https://www.rindapandeiro.com、山本ひかり:https://hikariyamamoto.wixsite.com/hikariyamamoto
暖かい夜にアオサギが悠然と闊歩する
終演後に設けられたCD即売会、全国展開する大手CDショップでかつて店長を務めていたヌノちゃんは居ても立っても居られず販促をかって出る。私もひとつ買い求めた。演奏者の二人を交えてしばし話を弾ませ、オヤジ3人はサロンゴカフェを後にした。

夜も遅いがそのまま別れるのもなんだか惜しい気がして、ラストオーダーを終えたところが多く適当な店がなかなか見つからない中、オヤジたちは人形町をほっつき歩いた。ようやく入れてもらったホルモン焼き屋でホルモンを4人前つつき、それぞれに2杯のグラスを飲み干し、あれこれ様々な話に興じた。帰る方角が同じ二人と地下鉄の入り口付近で別れ、「さてどうしたものか」と頭を捻る。「夜も遅いしちょっとした距離なんだしタクシーでも拾っちゃおうか」とも考えたが、こちとら還暦も過ぎた初老の身、うっかりしていると筋肉と代謝能力が同時並行的になすすべなく減退し、その一方で財布の中身は恒常的に軽いまま、なのだ。春の暖かい夜を満喫すべく、また歩いて帰ることにした。

清洲橋を渡って江東区に戻り隅田川テラスに下りる。「娘さんと隅田川テラスで雀に餌をあげているときに思い浮かんだっていうオリジナル曲、あれ良かったな」などとライブを反芻していると、小名木川と接する前方のあたりを悠然と闊歩する大きな鳥がいる。私たち夫婦が「キング」と呼んでいる小名木川を縄張りにしているアオサギだ。抜き足差し足で近づくも、あと少しで横並びというところでキングはやはり悠然と夜の中へと飛び立った。ああ、もうすぐ隠居の身。こうして素敵な夜はひっそりふけていく。
