隠居たるもの、感嘆は新鮮に蘇る。瀬戸内国際芸術祭で、高松港と女木島の2会場で展示されていた映像作品、「世界はどうしてこんなに美しいんだ」がどうも気になっていた。なんか迫ってくるものがあるのだ。ヴィクトール・E・フランクルの名著「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」からの一節をタイトルにしたという。

「世界はどうしてこんなに美しいんだ」

夕焼けに包まれる海沿いを、作品タイトルがホイールライトで車輪に浮かび上がる自転車で走る映像インスタレーション、山下麻衣さんと小林直人さんの作品である。ただでさえ美しい瀬戸内海の夕景、身体性を伴う自転車という道具でそこを疾駆する切ないまでの爽快さ、その際にあびる風に感ずるものもあるだろう。女木島で大画面の前に立ったとき、切迫感すら伴ってそんなこんなが押し寄せた。また、作品タイトルは「夜と霧」からの一節だとの案内も展示されており、30年ほど前の読書体験を曖昧に想い起こす。そして、どのあたりだったかに思い当たったとき、不用意にも涙ぐみ、「帰ってからもう一度、読まなくては」と決意したのである。なぜにこうも惹かれるのか、棚の奥から引っ張り出して30年ぶりに名著に確かめてみなければならない。

「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」

その一節は「四. 非常の世界に抗して」の中、私が所有していた霜山徳爾訳の1989年9月20日発行 新装第11刷の127ページにあった。本書は、アウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還したユダヤ人心理学者の「限界状況における人間の姿の記録」である。2002年発行の改訂版とは微妙に文言も異なり、そこもまた味わい深い。

満足な「労働力」とならない者が即座にガス室に送られ、働けるうちは殺されないものの凄惨な奴隷労働を強いられ、日々に誰かが命尽きる状況の中で、フランクルはふと女性収容所にいるはずの妻の面影に満たされ救われる。目の前にいなくても、想像するだけで自らを充たすことができたというのだ。実際はとうにガス室に送られていたのだが…。そして、死んだように疲れている極度の疲労や寒さにも関わらず、日没の光景を見逃させまいと、皆に外に出るよう求める仲間がいて、仲間たちと真紅の美しい光景を眺めたのだそうだ。感動の沈黙が数分続いた後に、「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と誰かが誰かに尋ねる声が聞こえてきたのだと。

どんなに凄惨な環境に置かれても、「品位ある善意の人間性」を選択するのかどうかはそれぞれの者に委ねられている。その選択によって強制収容所で生き残れたかどうかは別の話だが、強制収容所の中にも「品位ある善意の人間」であり続けた人はいた、と彼は語る。つまり、どんな状況であれ、私たちには「人間」でいられる可能性は残されている。

木場公園からの稀にみる夕陽

9月の強風吹きすさぶ夕刻に、木場公園の仙台堀川にかかる陸橋でなんとも美しい夕焼けを見た。少女が「ママにも見せたい!」と声をはりあげ、一緒にいたパパにスマホで写真を撮るようせがんでいた。その少女の心情が散りばめられて、この情景は稀にみる感動的な光景となった。

この世界は「自滅」に向かっているのではないかと訝ってしまう今日この頃である。瀬戸内海で鑑賞した作品に、どうしてこうも胸が熱くなったのか得心がいった。こんな時代であっても、いや、こんな時代だからこそ、声に出さなければならないのだ。

今日、2歳半の女の子と生後2ヶ月の男の子を育てる友人夫婦宅に遊びに行った。江東区砂町の彼らの家まで、仙台堀川公園を伝って自転車に乗って行ってきた。可愛いこのふたりや、陸橋の上で声を張り上げていた少女、この子たちの「身の丈」を、「それに合わせろ」というあの厚顔無恥な文部科学大臣に計らせるわけにはいかないじゃないか。ああ、もうすぐ隠居の身。世界はどうしてこんなに美しいんだろう。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

世界はどうしてこんなに美しいんだ件のコメント

  1. 確か私の本棚にあるはず、どなたの訳かな。

    MIWAKO

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